Disc Review

Songs From Other Places / Stacey Kent, Art Hirahara (Token/Candid)

ソングズ・フロム・アザー・プレイシズ/ステイシー・ケント&アート・ヒラハラ

パンデミック前まではほぼ毎年のように来日して、ブルーノート東京とかで素敵なライヴを披露してくれ続けていた歌姫、ステイシー・ケント。

ライヴでは夫であるジム・トムリンソン率いるジャズ・コンボでの演奏が基本だけれど、スタジオ・アルバムでは壮麗なストリングス・オーケストラをバックにしたり、ボサノヴァの名手、ホベルト・メネスカルのギターとコラボしたり、曲によってラテン・パーカッションを積極的に導入したり、けっこう柔軟なフォーマットの下、いわゆるグレイト・アメリカン・ソングブック系のスタンダード・ナンバーからポップ・ソング、さらにはオリジナル・ナンバーまで、英語、フランス語、ポルトガル語などを使い分けながらパフォーマンスしていて。

そうしたアイディアに満ちた多彩なアプローチがこの人の特徴でもあるのだけれど。にもかかわらず、どのアルバムも、ああ、ステイシー・ケントだなぁ…という感触に貫かれていて。いつも安心して身をまかせられる。

きっとこの人独特の可憐な歌声とナチュラルな歌心のおかげなのだろう。たたずまいは、まあ、確かにジャズ・シンガーではあるのだけれど、いわゆるジャズ・シンガー然とした気取ったフェイクをこれみよがしに放つわけでもなく、どこかキュートな、少女っぽいニュアンスをたたえた歌声で、いつも自然体で歌い綴ってくれて。楽曲そのものの魅力をけっして損なうことなく、しかしステイシー・ケントというシンガーならではの味をもきっちり感じさせてくれるという、ある種の離れ業を軽々こなしてくれる得がたい存在だ。

と、そんなステイシーさんの新作は、父親が日系2世、母親が日本人というサンフランシスコ出身の実力派、アート・ヒラハラが奏でるピアノ一本をバックに綴られた1枚。ピアノと歌だけというミニマムな編成でも、先述した通り、今回もまた、ああ、ステイシー・ケントだなぁ…としか言えない、うれしい安心感のようなものに貫かれた仕上がりだ。ジム・トムリンソンは今回プロデューサーに徹している。

新型コロナウイルス禍ということもあり、基本、自宅でのレコーディング。ピアノもどうやらエレクトリックっぽいのだけれど、でも問題なし。音質云々ではなく、ステイシーさんとヒラハラさん、それぞれのパーソナルな思いのようなものが、閉ざされた空間で、呼吸をともにしながら、目線を交わし合い、さりげなく交錯しつつ、しかしイメージの中では部屋を飛び出し“どこか他のところ”へと向かって飛翔してゆくさまに胸が躍る。

アルバムのオープニングを飾るのは、2007年のアルバム『市街電車で朝食を(Breakfast on the Morning Tram)』の収録曲だった「アイ・ウィッシュ・アイ・クッド・ゴー・トラヴェリング・アゲイン」の再演ヴァージョン。彼女に何曲も歌詞を提供している長年の親友、カズオ・イシグロがジム・トムリンソンと組んで書き下ろした名曲だけれど。去年からのパンデミックの中、ファンの間で改めて存在感を増し始めていた1曲だった。ステイシーさんも多くのファンからこの曲にまつわるメッセージを受け取り、今回の再演に結びついたらしい。

もともとのボサノヴァ調の洗練されたコンボ演奏ももちろん素晴らしかったけれど、アート・ヒラハラのピアノだけをバックに淡々と綴られたこのニュー・ヴァージョンも、このご時世の中、“どこかにまた旅に出たいな…”という思いがよりしみじみ、切実に伝わってくる。泣ける。

この曲を筆頭に、本アルバムからはリード・トラックのような形で5曲が先行公開されていて。残り4曲は、以前もカヴァーしていたフリートウッド・マックの「ランドスライド」のニュー・ヴァージョン、アントニオ・カルロス・ジョビンの「ボニータ」、イシグロ=トムリンソン作の新曲「クレイジー・バーン」、カズオ・イシグロのリクエストで取り上げることにしたというポール・サイモンの「アメリカン・チューン」。

その他、クルト・ワイル&アイラ・ガーシュウィン作のミュージカル・チューン「マイ・シップ」とか、ビートルズの「ブラックバード」とか、イシグロ=トムリンソン作のもうひとつの新曲「タンゴ・イン・マカオ」とか…。選曲も含め、全部が素敵すぎるピアノ&ヴォーカル・アルバムです。

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