ラフ&ロウディ・ウェイズ/ボブ・ディラン
やー、出ました。待ちに待った1枚。フランク・シナトラのレパートリーを中心に、いわゆる“グレイト・アメリカン・ソングブック”と呼ばれるスタンダードな名曲群のカヴァーにいそしんだ夢のような3連作を挟んで、2012年の『テンペスト』以来、実に8年ぶりとなる全曲オリジナルで占めた新作アルバム。
といっても、本当に光栄なことにぼくは国内盤のライナーノーツを書かせていただいたもので。執筆のため、ほんの少しだけ先駆けて内容に接することができた。ただ、先行リリースされた3曲以外の収録曲について、聞いたという事実を他言してはいけないし、内容に触れてもいけないし、タイトルすら漏らしちゃいけないという厳戒態勢だったこともあり、この新作がどんなに素晴らしい仕上がりか、ずいぶんと長いこと誰にも言えない状態のまま。じーっと黙っていなくちゃならなくて。まじ、つらかったです(笑)。
ようやく本国アメリカでリリース。国内盤発売は来月のようだけれど。ストリーミングもスタート。規制解除です。止めていた息をやっと吐き出せる解放感にうきうき。大声で言わせてもらいます。ディランの新作『ラフ&ロウディ・ウェイズ』、最高にごきげんな仕上がりです! やっぱ、この人すごい。当たり前だけど、並じゃない。
このあたりの詳しいことは、次の日曜日、6月21日にロック・カフェ・ロフトから生中継でお届けする《リモートCRT》でも題材として取り上げて、あーでもないこーでもないとみんなで盛り上がりたいなと思っております。ディランの新作をサカナにリモート飲み会。楽しそうだなー。リモート・チケット発売中です。お時間ある方、ぜひ。
他にもポール・サイモンの評伝本のこととか、ロビー・ロバートソンがザ・バンドについて振り返ったドキュメンタリー映画『Once Were Brothers: Robbie Robertson and the Band』(今秋日本公開)のこととか、話したいテーマが山盛り。話題満載で盛り上がりましょう!
で、改めてディランの新作話に戻りますが。
今回、曲作りの充実度はもちろん、ヴォーカルの仕上がりもより渋く、深く。圧倒的なところを聞かせてくれている。「グッバイ・ジミー・リード」って曲では偉大な先達ブルースマンへの敬意をこめてだろうか、ちょこっとだけれどハーモニカも吹いているし。燃える。いつものネヴァー・エンディング・ツアー・バンドの面々を基本とするミュージシャン群のサポートも素晴らしく。21世紀に入ってからのボブ・ディラン・サウンドがさらに成熟度/一体感を増しながら存在感を放っている1枚(つーか、変則2枚組)だ。手応えたっぷり。
新作のライナー、メイン執筆者はもちろん菅野ヘッケルさんだ。とはいえ、先述の通りぼくも駄文を寄稿させていただいていて。だいたい書きたいことはそっちに書いちゃったので、可能であれば国内盤をゲットして目を通していただくのがいちばんなのだけれど。内容的にあまりダブらないよう、こちらでも軽く書き足させていただくと。
ディランの自作曲について語る場合、わりとアプローチが歌詞に寄りがちだ。なにせノーベル賞すら認める文学者さんだし。それは仕方ない。ただ、今回はアルバムを聞いていてなんだかコード感のようなものがやけに気になって。ぼくはそっち寄りのライナーを書かせてもらった。ディランにしては珍しいコードの動きとかが随所に見られる。この傾向は、きっとグレイト・アメリカン・ソングブックのカヴァーを続けたことからの影響もあるような…。
もちろん歌詞のほうも相変わらずものすごい。最初に先行公開され、本ブログでも取り上げた「最も卑劣な殺人(Murder Most Foul)」に代表されるように、収録曲群の随所に固有名詞や映画、楽曲、文学などの作品名などがこれまで以上に多数散りばめられているのも今回の特徴か。アルバム・タイトル自体、カントリー音楽の祖、ジミー・ロジャースが1929年に録音した「マイ・ラフ・アンド・ロウディ・ウェイズ」に触発されたもののようだし。なんだか興味深い。ぼくたちファンはそんな語句ひとつひとつに思いきり過剰に反応して、深読みをして、それぞれの頭の中で勝手に妄想を広げていくわけだけれど。
いつもならば、ディランから“そんなバカなことはやめとけ。どうせわからないんだから”とクールに突き放される感触が盤面から匂い立ってきたものだ。にもかかわらず、今回はなんだか、むしろ深読み推奨、みたいな。そんなディランの眼差しを感じなくもない。気のせいかもしれないけど。実際、「マイ・オウン・ヴァージョン・オブ・ユー」という曲の中で、ディランは“俺の言ってること、わかるだろう?”と聞き手に問いかけたりしているし。
もちろん、最終的にはきっとよくわからないまま、ぼくたちはアタマをぐるぐるさせるだけで終わるのであろうことも想像に難くなく。結局、いつもと何ひとつ変わらなそう。そういえば、ライナーを書いた段階ではまだ読むことができなかったニューヨーク・タイムズの最新インタビューの中で、ディランは「歌詞に書かれているのは本当のことだ。具体的なものだ。メタファーじゃない」みたいなことを語っていて。ちょっとびっくりした。
てことは、今回の収録曲で言えば、“俺は十字架に祈り、若い娘たちにキスをしてルビコン川を渡った”と歌う「クロッシング・ザ・ルビコン」とか。初めて聞いたとき、これ、ぼくは“古代ローマのイメージとブルースとの交錯”じゃないかと受け止めて、ディラン、すげえこと考えるなと、その時間軸の雄大さにぶっとんだものだけれど。実際はイメージじゃなく、今のイタリアに流れるルビコン川を渡ることを歌ったブルースだったとすると、まるで見えてくる光景が変わってくる。
あるいは、ディスク1のラストを飾る「キーウェスト(フィロソファー・パイレート)」とか。ディランに愛とインスピレーションとロックンロールという真実を伝えてくれた海賊放送局がある、どこか遠い架空のパラダイス的なイメージとしての“キーウェスト”なのだろうと理解していた。スティーヴン・キングっぽい設定だなー、と想像を膨らませていたのだけれど。これまたもっと具体的な、文字通りフロリダのリゾート・アイランドのことだったりするのか。
あ、でも、そうすると、「偽予言者(False Prophet)」の“俺は最上の人間の最後のひとりだ。他のやつらは埋めちまえ…”なんて乱暴な放言もメタファーじゃない、リアルな描写なのか? 前出「マイ・オウン・ヴァージョン・オブ・ユー」では、神に背く行為であることを自覚しつつ生命の謎を解き明かし自在に操りたいという野心に突き動かされてしまったフランケンシュタイン博士の狂気すら思わせる歌詞が聞かれたりもするのだけれど、これもリアル? うわわ…。
ディランにしてみれば、なわけねーだろ的、無意味な深読みかもしれない。けど、ぼくたちアホなファンはディランの曲ひとつひとつ、発言ひとつひとつに、かくもあたふた右往左往させられるのでありましたとさ。いやー、ダメだ、妄想が止まらない。やばい。《リモートCRT》にとっておこうっと(笑)。