フィル・スペクター、死去
数日前、ヴァニラ・ファッジ、カクタス、ベック・ボガート&アピスなどで活躍したティム・ボガートが亡くなった。去年、こちらで書かせてもらった通り、ぼくはヴァニラ・ファッジに思い入れが強いもんで。また時の流れを否応なく思い知らされていたところへ、昨夜さらなる衝撃——。
フィル・スペクターの訃報が届いた。
フィル・スペクター。1960年代の米ポップ・シーンきっての奇才/鬼才プロデューサー。ご存じの通り、2007年に第2級殺人罪で有罪の評決を受け、カリフォルニア州立刑務所で禁固刑に服していたのだけれど。獄中で新型コロナウイルスに感染。医療施設と監獄とを行き来する中、2021年1月16日、新型コロナによる合併症で亡くなったそうだ。享年81。
なにせ、殺人犯だ。なかなか手放しで彼を追悼することも、その功績を賞賛することも、はばかられたりはするのだが。いや、それにしても彼が1960年代の米ポップ・ミュージック・シーンで成し遂げた功績の数々はけっして見逃すことのできない、とてつもなく重要なものだった。特に、1961年に自ら設立したフィレス・レコードから彼が世に送り出したヒット・シングルたちはどれも20世紀の米国が誇るべき宝だ。
スペクターは、卓抜した編曲センスを誇るアレンジャーのジャック・ニッチ、優秀なエンジニアのラリー・レヴィン、“レッキング・クルー”なる呼称でもおなじみの西海岸系腕ききセッション・ミュージシャン・チームに属していたハル・ブレイン(ドラム)やアール・パーマー(ドラム)、ジョー・オズボーン(ベース)、キャロル・ケイ(ベース)、レオン・ラッセル(キーボード)、ドン・ランディ(キーボード)、グレン・キャンベル(ギター)、トミー・テデスコ(ギター)、スティーヴ・ダグラス(サックス)ら、そして気鋭の若手ソングライターだったジェリー・ゴフィン&キャロル・キング、ジェフ・バリー&エリー・グリニッチ、バリー・マン&シンシア・ワイルらで構成される一大軍団を率いて“ウォール・オヴ・サウンド~音の壁”と呼ばれる、深いエコーと圧倒的な音圧に彩られた独創的なサウンドを創造した。
シンガーも厳選された。キュートさと不良っぽさと脆さがロマンチックに交錯する独特の歌声を持つヴェロニカ・ベネット(ロニー・スペクター。のちのスペクター夫人)をはじめ、豊かなゴスペル感覚に裏打ちされた伸びやかな歌声が印象的なダーリーン・ラヴ、白人ながら極上のR&Bっぽさをたたえた低音ヴォーカルが魅力的だったビル・メドレーなど、自らクリエイトした分厚いバックトラックに負けない力強くソウルフルなシンガーたちを重用。彼らにとっかえひっかえ歌わせつつ、そのつど様々なグループを装ってレコードをリリースし続けた。
もちろん、サウンドはすべて“音の壁”。このある種独裁的な姿勢から生み出された音は芸術だった。クリスタルズ「ヒーズ・ア・レベル」(62年、全米1位)、ダーリーン・ラヴ「ボビーが帰ってくるまでは(Wait ‘til My Bobby Gets Home)」(63年、26位)、ロネッツ「ビー・マイ・ベイビー」(63年、3位)、ライチャス・ブラザーズ「ふられた気持ち(You've Lost That Lovin' Feelin’)」(64年、1位)など、完璧な3分間のティーンエイジ・ドリームを次々と構築していった。普段ほとんどの作品をアーティスト名で識別しているぼくたちも、スペクターに関してだけは考えを変えなきゃならない。様々なアーティスト名はついていたにせよ、これらのレコードを象徴していたのは、歌手でもミュージシャンでもなく、すべての指揮官であったスペクターだった。
疑いなく、独裁。が、この独裁的姿勢の下、スペクターはクラシック、ジャズ、R&B、ハリウッド音楽、ロックンロールなど、子供のころから偏愛してきた既存の偉大な音楽たちを、徹底した録音技術と人一倍のこだわりとをもって完璧に磨き上げ、優れたスタッフを駆使しながら融合してみせた。ロックンロール誕生以前の米ポピュラー音楽の黄金の制作形態だった分業制――つまり、プロデューサーはプロデューサー、作家は作家、シンガーはシンガーというシステムを、彼はロックンロールの世界へ積極的に取り込み、専制的な姿勢ですべてを指揮しながら究極の美を産み落とした。狂気に裏打ちされた激しい情熱をもって、ロックンロール以前から60年代半ばにかけてのポップ・ミュージックを見事に総括してみせた。
そう。狂気。これもまた、フィル・スペクターを語る際、使わざるをえない言葉のひとつだ。
今さら言うまでもなく、スペクターは疑いなくある種の偏執狂だった。極度のナルシシストだった。彼の作り上げたポップでドリーミーな音像は、しかしすべて恐るべき狂気に裏打ちされていた。スペクターの狂気を物語るエピソードは数多い。日頃から携帯していた拳銃をスタジオの天井めがけてぶっぱなしたとか、大邸宅の周囲を電流の流れた鉄状網で囲ってしまったとか、完成したマスターテープを持って姿をくらましてしまったとか、何昼夜も連続でレコーディングを行なったあげく「モア・エコー」と言い残し卓に突っ伏して気絶したとか。その壮大なサウンドや専制的な姿勢ゆえに“ポップス界のワグナー”なる呼称も与えられた。あげく殺人を冒し、罪に問われ、獄中で死を迎え…。
思えば、1960年代半ばの段階である種のピークを実現し、目的を達成してしまったスペクターは、以降、時代遅れの存在になっていくしかなかったのかもしれない。
特に1964年、スペクターの作り出した音にも強く影響を受けた4人のイギリスの若者たち=ビートルズが世界中を席巻し、“自作自演”という美学をポップ・シーンの新たな常識にしてしまってからというもの、意図的にだったのかどうか端からは判断できないけれど、新時代の音作りスタイルに自らを適応させることをけっして由としなかったスペクターに受け皿はなくなった。こうして1960年代半ば以降、スペクターは徐々に輝きを失っていった。
そんな彼がシーン最前線にふたたび蘇り、改めて一定の手腕を発揮するようになったきっかけが、彼を葬ったはずのビートルズの“解散アルバム”とも言うべき『レット・イット・ビー』のプロデューサーとしてだったのは、なんとも皮肉な成り行きではあったのだけれど。
時代の流れとともに自分のやり方を変えることもできず、かつてと同じ夢を同じ情熱をもって追いかけたがゆえに孤立していくしかなかったフィル・スペクター。これもまた、どうしようもなくロックンロールな生き方なのかもしれないな、と思う。切なく思う。