ザ・シー・ドリフト/ザ・デラインズ
米オレゴン州ポートランドを拠点に活動するザ・デラインズ。
オルタナ・カントリー系のリッチモンド・フォンテインを率いていた中心メンバーで、近年は作家としても成功を収めているウィリー・ヴローティン(ギター)を核に、リッチモンド・フォンテインのアルバムに客演したのをきっかけに意気投合したという元ダムネイションのエイミー・ブーン(ヴォーカル)、マイナス5のタッカー・ジャクソン(ペダル・スティール)、やはりリッチモンド・フォンテインのメンバーだったショーン・オールダム(ドラム)、ディセンバリスツやブラック・プレイリーなどでも活躍するジェニー・コンリー(キーボード)といった顔ぶれで2012年に結成。当時は自らを“レトロ・カントリー・バンド”などと呼んでいたっけ。
2014年に初アルバム『コルファックス』をリリースしたときは、様々なバンドで活動する仲間が臨時に集ったスーパー・ユニット的なものかと思った。けど、翌年、10曲入りながらEPという扱いらしい『シーニック・セッションズ』が出て、さらにセカンド・フル・アルバム『ジ・インペリアル』の制作にも取りかかるなど、予想はうれしくもいい方向に裏切られて。
ところが2016年、なんとヴォーカルのエイミーさんが深刻な交通事故に遭ってしまい、セカンド・アルバムのリリースがあえなく延期に。なかなかすんなりとはいかないバンド活動になってしまったのだけれど。
そんな中、しかし彼らは慌てることなく、しっかり自分たちの個性を深く掘り下げ続けていたようだ。その成果が今回のサード・アルバム『ザ・シー・ドリフト』。ソウルとカントリーが静かに交錯する、サザン・ゴシック・ロックとでも呼びたくなるような、さらに味わい深さを増した彼らならではの世界観を届けてくれた。
現在のラインアップは、ヴォーカルのブーン、ギターのヴローティン、ペダル・スティールのジャクソン、ドラムのオールダムは変わらず、そこにキーボード&トランペットのコリー・グレイ、ベースのフレディ・トゥルヒーヨが加わる形。アルバムでは曲によってプロデューサーのジョン・モーガン・アスキューがバリトン・ギターを聞かせたり、ストリングスやサックスが加わりより柔軟なアンサンブルをもたらしたり。
全11曲中、中盤とラスト2カ所に登場するサントラっぽい短めのトランペット・インタールードがコリー・グレイ作。残る9曲がすべてウィリー・ヴローティン作だ。
ヴローティンがガルフ・コースト、つまりメキシコ湾岸を舞台に紡ぎ上げた短編小説集のような、なんとも魅力的な作品集。容赦ない暑さ、きつい酒、渦巻く紫煙、むせかえるようなヘアスプレーの臭い。そんな中、様々な形で追い詰められた者たちの思いなり人間模様なりを、ヴローティンのからっからに乾いた筆致とブーンのスモーキーな歌声とで、ひたすら淡々と綴っていく。
たぶん、ビールとか冷凍ピザとかをどこかのマーケットで万引きしたか何か、とにかく悪さしたところを見つかって、ボコボコにされながら逃亡中の兄弟の姿を描いていると思われる「リトル・アール」でアルバムは幕を開ける。ひどく出血し続ける兄をバックシートに乗せ、でもまだ子供で身体が小さく、道が見えるようお尻の下に枕を敷いて、泣きながらエアコンが壊れた車を走らせるしかない“ちびっ子アール”の切羽詰まった、行き場のない逡巡の物語だ。
次、ボーイフレンドのボクサーがパンチドランカーになって壊れてしまってもずっと寄り添い続け、いつもクールで穏やかに、ミルクを買いに行くためだけでも、髪はブーファント、フェイクファーのロング・コートというスタイルでストリートを歩く女性を描いた「キッド・コデイン」が続いて。
さらにその次。家庭、夫、など、様々な日々の重圧からの解放を切望しながら、自分が愛されているという証を求め、家ではない、どこか他のところへ逃れようとあがく女性を主人公に据えた「ドラウニング・イン・プレイン・サイト」。この曲がまた超やばい。たまらない。車を駆る主人公の思い。“子供のアイスクリームが溶けてゆく/夫のビールがぬるくなってゆく/私が家にいるはずの時刻から1時間/携帯が鳴る/貨物船が通り過ぎる/ガソリンのメーターは空/でも車を停める気はない”みたいな。この逃亡に焦がれる思いは遂げられるのか、それとも何事もなかったように彼女は家に帰るのか…。日々の変わらぬ単調な光景をまるで呪うかのように冷徹に切り取っていく主人公の眼差しに震えがくる。
他にも、孤独から目をそらすため刹那な絆にすがろうとする女性の心情を綴る「ホールド・ミー・スロー」とか、朝6時、弾丸を装填した銃をテレビの上に乗っけているような元彼の家へと最後の荷物を取りに行く女性の、後戻りすら許されぬ絶望の物語「ジス・エイント・ノー・ゲイトウェイ」とか、海岸沿いの町に住む女性が仕事帰り、夫が警官によって壁に押し付けられ手錠をかけられているところを目撃し、もちろん夫が何をしたかは知らないのに、彼が有罪であることを頭のどこかで感知している、みたいな「サーファーズ・イン・トワイライト」とか。
たとえば、往年のボビー・ジェントリーとかトニー・ジョー・ホワイトとかジョー・サウスとかある時期のダスティ・スプリングフィールドとかが醸し出していたような、猥雑さと達観とが入り交じる、うちひしがれた者たちの危うく、謎めいたドラマが構築されていく。
しみる1枚でした。