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Doris Day, America’s Sweetheart, has passed away at 97.

追悼:ドリス・デイ

往年の名曲をカヴァーしたりする際、必要以上に自意識の強いフェイクをこれ見よがしに繰り出してみたり、あえて原曲とイメージの違う奇をてらったアレンジを施してみたり、そうしなければ気がすまないタイプのシンガーがいる。確かにそれもまたクリエイティヴィティの発露なのだろうなとは思う。

ただ、こちらの気分にもよるのだけれど。そうした強大な自意識がやけにうざく、息苦しく感じることもあって。

そういうときぼくはその真逆、必要以上に自意識の強いフェイクをこれ見よがしに繰り出すこともなく、あえて原曲とイメージの違う奇をてらったアレンジを施すこともなく、コール・ポーター、アーヴィング・バーリン、ホーギー・カーマイケル、ジョージ・ガーシュインら名ソングライターたちが作り上げた名曲の深い歌詞と豊かな旋律をありのまま、素直に、淡々と歌い綴りながら、しかし同時に自らの個性もさりげなく発揮してみせる往年のアメリカン・ポピュラー・ヴォーカリストたちの歌声へと立ち返ることにしている。

たとえば男性歌手でいえばビング・クロスビーやフランク・シナトラ、ディック・ヘイムズ、ペリー・コモ、女性歌手であればルース・エッティングやパティ・ペイジ、そして誰よりもこの人、ドリス・デイ。

1950年代半ば生まれのぼくにしてみれば、けっしてリアルタイムに全盛期を体験できたシンガーたちではないけれど、後年、レコードなどを通じて後追いでとりこになった彼ら、彼女らの優しく気品のある歌声に接して心を整えるのだ。一見地味ながら離れがたい魅力を放つ端正な歌唱スタイルに癒されるのだ。そんな大切なシンガーのひとり、ドリス・デイの訃報が届いた。5月13日、肺炎のためカリフォルニア州内の自宅で死去。享年97。

今はだいぶ変わってきたけれど、かつて銀幕を彩る女優と言えば、近寄りがたく完璧な美を備えた雲の上の存在といったイメージがあった。そういう意味でドリス・デイは少々異質な存在だったかもしれない。“そばかす天使”などと呼ばれた、親しみやすく愛くるしい笑顔。特に強烈な個性があるわけではないのに、どこか気になるキュートな仕草。いかにも米国の女の子的な屈託のなさが印象的だった彼女は、完璧な美によってではなく、“隣のお嬢さん”的な親しみやすさを武器に多くの観客を魅了した米国最初のスターだった。

1922年4月3日、オハイオ州生まれ。子供のころからバレリーナを夢見て踊りのレッスンを続けていたが、15歳のとき交通事故に遭って右脚を負傷し、その道を断念。歌うことも大好きだったため以降は歌手の道を目指してレッスンを重ねていった。一気に才能を開花させた彼女は、ラジオ音楽番組やホテルのラウンジへの出演などを経験した後、1939年、16歳という若さでバーニー・ラップ楽団の専属歌手に。以降、ジミー・ジェイムズ楽団、ボブ・クロスビー楽団、フレッド・ウォーリング楽団などを経て、1941年、18歳のときレス・ブラウン楽団の専属歌手の座を射止めた。

そんな専属歌手時代に生まれた初の全米ナンバーワン・ヒットが、彼女の代表作のひとつ、レス・ブラウン作の「センチメンタル・ジャーニー」だ。終わってしまった恋を想い出にして新しい旅に出よう、という文字通りセンチメンタルな名曲だが。実はこの時期、ドリスは若くして結婚、出産、離婚を経験していた(ロックンロール・ファン、ポップス・ファンの間でおなじみのテリー・メルチャーはこの最初の結婚のときに生まれた子供だ)。さらに新たな恋〜再婚への予感もあったという。「センチメンタル・ジャーニー」はそんな彼女にとっても重要な再出発の誓いでもあった。この曲を皮切りに、ドリスはレス・ブラウン楽団の専属歌手として次々と全米トップ10ヒットを放つようになった。

1947年にはレス・ブラウン楽団を辞め、ソロ歌手として独立。翌1948年からは映画の世界でも活躍を開始した。マイケル・カーティス監督の『洋上のロマンス』で女優デビュー。映画の仕事が次々と舞い込み、歌に演技に大忙しの日々を過ごすようになった。53年に主演したデヴィッド・バトラー監督のミュージカル西部劇映画『カラミティ・ジェーン』が大ヒット。彼女が歌った主題歌の「シークレット・ラヴ」も1954年に4週間全米1位に輝き、オスカーも獲得。1956年に主演したサスペンス映画『知りすぎていた男』(アルフレッド・ヒッチコック監督)の挿入歌「ケ・セラ・セラ」も全米2位に達する大ヒットに。人気を不動のものにした。

彼女が映画で共演した男優といえば、クラーク・ゲイブル、ケーリー・グラント、ジェームズ・スチュワート、ジェームズ・キャグニー、デイヴィッド・ニーヴン、ロック・ハドソン、ジャック・レモン、フランク・シナトラ、カーク・ダグラスなど。そうそうたる顔ぶれだ。が、ドリスは彼ら大スター相手でも、けっして浮き足立つことはなかった。相手に食われることもなければ、相手を食うこともない。ひょうひょうとした立ち位置で、持ち前の屈託のない笑顔を振りまいていた。歌に対するアプローチと同じだ。常に対象の個性を最大限に立てることで、結果的に自らの個性をのびのびアピールするという、まったく新しいタイプのパフォーマー。それがドリス・デイだった。

68年からは毎週様々なゲストを迎えるテレビ番組『ドリス・デイ・ショー』がスタート。73年まで続いたが、その後はあまり表舞台に出ることもなくなり、動物愛護活動に力を注ぐように。カリフォルニア州カーメルに非営利団体“ドリス・デイ・アニマル・リーグ”や基金を管理する“ドリス・デイ・ペット・ファウンデーション”を創設。家庭用ペットから畜産まで、人間と動物との付き合い方について幅広い提言を行なってきた。これもまた他のスターたちとは違う、いかにもドリス・デイらしいマイペースな活動だった。

たくさんの感動をありがとう。あなたの歌声はこれからも多くの人たちの心に色褪せず生き続けます。どうぞ安らかに…。

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