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Why Bob Dylan Matters / Richard F. Thomas

ハーバード大学のボブ・ディラン講義/リチャード・F・トーマス:著、森本美樹:訳(ヤマハミュージックメディア)

去年の6月、ボブ・ディラン久々の新作オリジナル・アルバム『ラフ&ロウディ・ウェイズ』がリリースされた直後、朝日新聞に寄せたコラムに、こんなことを書いた。一部、引用させてもらうと——

音楽の世界に限ったことではないが。パクリという行為は糾弾されがちだ。確かに糾弾されてしかるべき安易なパクリも多い。が、絶妙なパクリも、納得のパクリもある。乱暴に言い切れば稚拙なそれも含めパクリこそが文化を発展させてきた。(中略)そういう意味で僕はパクリが大好物。おいしいパクリは大歓迎だ。が、昨今は美味なパクリも不味いパクリも一緒くたに糾弾されがち。面白くない。いつから世の中はこれほどパクリに不寛容になったのか。

そんな狭量な空気感の下、僕が個人的にパクリの最高峰と崇めるベテランが新作アルバムを出した。ボブ・ディラン。実はこの人もパクリの常習犯だ。

新作『ラフ&ロウディ・ウェイズ』でもやらかしている。収録曲のひとつ「偽予言者」はR&B歌手ビリー“ザ・キッド”エマーソンが54年に発表したブルース「イフ・ラビン・イズ・ビリービング」とキーもコード展開もギター・リフもほとんど同じ。明らかな引用、流用だ。もちろん歌詞は違う。エマーソン盤は恋愛絡みの詞だが、ディラン作の詞は、「俺は裏切りの敵。争いの敵。罪滅ぼしのための無意味な人生の敵」とシニカルに達観を綴ったり、「俺は最上の人間の最後のひとり。他のやつらは埋めてしまえ」と、とんでもないことを自慢げに吼えてみたり。不敵に深い。

ディランの曲には同様のものが少なくない。フォークのウディ・ガスリー、ジャズのビング・クロスビー、ブルースのマディ・ウォーターズら多彩な先達の楽曲の旋律をちゃっかり流用し、そこに新たな自作詞を乗せた楽曲がそこそこある。

代表作「風に吹かれて」もそうだ。旋律の元ネタは奴隷の競り市を題材にした19世紀の霊歌「競売はたくさんだ」。04年のインタビューでディラン自身こう発言している。

「あの曲は10分で書いた。たぶんカーター・ファミリーのレコードで覚えた古い曲に新しい歌詞を乗せた。それがフォーク音楽の伝統だ。先人が手渡してくれたものを使うんだ…」

奴隷解放宣言を受け、奴隷だった者たちが自由への思いを綴った霊歌の素朴な旋律に、ディランは同じテーマを彼なりに再考する形で「人はどれだけの道を歩けば人として認められるのか」に始まる9つの問いかけを乗せ、最後、「答えは風に吹かれている」と結んだ。

発表当時、このディランの歌詞は曖昧すぎると批判されたと聞く。確かに元歌のように断罪すべき対象を特定しているわけではない。結論も漠然としている。が、その曖昧さゆえこれら9つの問いは初出から半世紀以上過ぎた今の時代にもそのままの形で有効に機能し続ける。ここがディランの凄み。こうやって彼は死にかけていた音楽を掘り起こし、アップグレードし、時代を超越させる。(後略)

朝日新聞 2020年6月25日夕刊

同様の内容を、2014年の拙著『ボブ・ディランは何を歌ってきたのか』や、2016年に配信したオンライン・マガジン「エリス」17号などでもちょっと詳しめに書いたっけ。ご興味ある方、特に「エリス」のほうはメルアド登録だけで無料で読めますので、バックナンバーの検索してみてください。

とにかく。こういう、何というか、著作権管理団体が聞いたら、おいおいおい、と怒り出しそうなやり口というか。でも、これがディランなりのオリジナリティの在り方なのだ。そしてそれこそ、著作権管理なんて概念が後づけで生まれるはるか以前から脈々と息づく音楽本来の生命力でもあるのだ。

…とか思っていたら。

そんなもんじゃなかった。この程度のパクリというか、剽窃というか、引用というか、借用というか、盗用というか、そんなの、思いきり近視眼的な、たいした規模のものじゃなかったことがわかった。このほど翻訳出版されたボブ・ディランに関する研究書『ハーバード大学のボブ・ディラン講義(Why Bob Dylan Matters)』(リチャード・F・トーマス:著、森本美樹:訳)を読んで。改めて思い知った。

今回、光栄なことにぼくが監修をさせていただいたこの本。ハーバード大学の古典文学教授であり、熱心なボブ・ディラン・マニア/研究家でもあるトーマスが、同大学で2004年から主宰しているボブ・ディランに関するゼミでの講義を一冊にまとめたものだ。以前は同僚の教授たちから軽んじられていた講義だったそうだが、2016年にディランがノーベル文学賞を獲得したとたん、一気に注目の講義になったという。

むちゃくちゃ面白かった。ちゃんと監修しなくちゃ…という大切な役割すら忘れて、夢中で、ものすごい勢いで読み進めてしまった。ダメじゃん、俺(笑)。もちろん、音楽寄りではなく、あくまでも歌詞の解読/解析に主眼を置いて、ディランの作品と時代との関係性、その背景に横たわる多彩な影響要因などを読み解いていく一冊なのだけれど。それだけに、ディランがどんな詩人たちに影響を受けながら自分の歌詞を紡いできたのかについての深い考察がたっぷり。

近い時代への目配りもきっちりなされている。たとえばディラン超初期のオリジナル・ソング「カリフォルニア・ブラウン・アイド・ベイビー」とウディ・ガスリーも歌っていた1930年代の曲「コロンバス・ストッケード・ブルース」との関係のようなものに言及したり、その「コロンバス…」の歌詞のフォーマットが「くよくよするなよ(Don’t Think Twice It’s All Right)」や「ボブ・ディランの夢(Bob Dylan's Dream)」に与えた影響を詳述したり、「廃墟の街(Desoloation Row)」とT.S.エリオットの初期名作「J.アルフレッド・ブルフロックの恋歌」を二重写しにしたり、「フォース・タイム・アラウンド」とビートルズの「ノルウェーの森(Norwegian Wood)」を比較してみたり…。もちろん、ランボーとの関係も深く触れられている。

が、そんなもんじゃない。本書のキモは、その程度の“遡り”にはとどまらない、もっともっとダイナミックな時空の超越具合にある。さすがは古典文学のプロ。「アイ・ウォント・ユー」と、ローマ時代の前衛的な抒情詩人カトゥルスによる「キス」の詩とを対比させてみたり、『全詩集』に掲載されていたタイプライターによる歌詞の下書きと、ウェルギリウスの救世主を歌った詩『農耕詩』第4巻の関連性に言及したうえで、『スロー・トレイン・カミング』へと至る流れを指摘したり、「ロンサム・デイ・ブルース」とやはりウェルギリウスの叙事詩『アエネーイス』第6巻を重ね合わせたり、「スカーレット・タウン」の一節に、聖書を経由して古代ローマへと向けられたディランの眼差しを読み取ったり…。

著者の思いははるか紀元前のローマ、ギリシャ、イタリアなどにまで馳せられているのだった。なんでも、先述ウェルギリウスもホメロスからの意図的な引用をめぐって物議を醸したことがあるらしく、そういう意味でもディランとの共通項は多いみたい。ローマの歴史家スエトニウスの著書『ウェルギリウス伝』には、作者がウェルギリウスの心情を代弁するこんな言葉があるという。

“彼らも同じことをしてみればいいんだ。やってみればホメロスの作品から1行盗んでくるより、ヘラクレスから棍棒を盗んでくるほうがよっぽど簡単だとわかるはずだ”

こうしたもろもろを“間テクスト性”というある種決定的なキーワードの下、詳細に、熱く論じつつ、2016年のノーベル賞受賞講演の解析にまで至る、と。そういう本だ。

T.S.エリオットの「Immature poets imitate; mature poets steal…」って有名な言葉ももちろんキーワードとして何度か登場する。“未熟な詩人は模倣する。円熟した詩人は盗む。無能な詩人は盗んだものを壊すが、有能な詩人は過去の作品の1行に新しい命を吹き込み、自分自身のものに変えて進化させるか、少なくとも過去の作品に匹敵する質のものを生み出す”という、あれ。

こうしたコンセプトの下、古典とは何か、ディランはノーベル文学賞にふさわしいのか、古典たり得るのか…がじわじわと論じられていく。やばい。パクリが大好物なぼくにとってもきわめて痛快かつ有効な一冊だった。パクリ、パクリと簡単に言うけど、安易な模倣にとどまらない、きわめて意識的なパクリを敢行する際のクリエイターの崇高な覚悟たるや、いかばかりか…。それを受け手側も、受け手ならではのクリエイティヴィティを最大限に駆使してどう受け止めていけばいいのか。いやー、考えさせられる点は本当に多いです。

まだまだステイ・ホーム必須な今日このごろ、この本読みながら、間もなく、今週末に世界同時発売されるボブ・ディランの未発表音源集『1970』を楽しむ、とか。そんな過ごし方もよいのでは? 『1970』については、リリースされたころにまた改めて。

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