追悼:マッコイ・タイナー
先週末、悲しい報せがFacebookを通して伝えられた。現地時間の3月6日、ジャズ・ピアニスト、マッコイ・タイナーが死去。享年81。死因は明らかにされていないけれど、ニュージャージーの自宅で家族に看取られながらの旅立ちだったという。
そのFacebookには、“マッコイ・タイナーが遺した音楽とレガシーは、これからも新たな世代のファンや未来の才能を刺激し続けるでしょう”という文章が記されていた。まさにその通り。彼の音楽はこれからも永遠に生き続けるに違いない。けれどもこの訃報が、ジャズという音楽における大きな一区切りを意識させてくれたことも事実。偉大な音楽家の訃報がいつもそうであるように、今回もまた、ある“時代”の終焉を否応なく突きつけられた気持ちになった。
マッコイ・タイナーという人は、本人が望むと望まざるとにかかわらず、常にジョン・コルトレーンとの関係の下、語られてきた。仕方ない。21歳のときコルトレーンに誘われて彼のバンドに参加して以降、1960年から65年にかけて、コルトレーン、マッコイ、ベースのジミー・ギャリソン、ドラムのエルヴィン・ジョーンズという、いわゆる“黄金のカルテット”がインパルス・レコードに残した作品群は、ある種、モダン・ジャズというジャンルそのもののピークを記録したものばかりだったのだから。
ぼくは今、60歳代で。残念ながらこのコルトレーン・カルテットの活動をリアルタイムで受け止めることはできなかった世代なのだけれど。それでも、たぶん同世代のほとんどのジャズ・ファン同様、彼らの“音”だけは後追いで聞きまくった。『コルトレーン』『バラード』『ライヴ・アット・バードランド』『クレッセント』『至上の愛(A Love Supreme)』『サン・シップ』など、あくまでレコード盤を通してではあったけれど、この4人が絡み合ったときに放たれる強力なオーラにノックアウトされ続けてきた。
今さら言うまでもなく、どのアルバムでも全員がすごいプレイを展開していて。もちろん、マッコイも存在感たっぷり。4度で音を重ねる例の独特の和音感覚を全開にしながら、自分に対してはもちろん、親分コルトレーンにも限りない自由を提供していくマッコイの発想とテクニックと情熱にはいつ聞いても圧倒されるばかり。これぞモダン・ジャズ、という感触をシーンに、歴史に、定着させた偉人のひとりだった。
が、ご存じの通り、コルトレーンは1967年に40歳で他界。ギャリソンも1976年に43歳で。エルヴィンも2004年に76歳で。そして、マッコイが今年、2020年3月に81歳で…。ジャズが真っ向からジャズとして機能していた時代を象徴する黄金のカルテットの面々が全員旅立ってしまったことになる。
このカルテットに在籍していた時期、マッコイは同じインパルス・レコードからリーダー・アルバムもいくつかリリースしている。大半がスタンダード曲も含むピアノ・トリオ作品で。その背景にはコルトレーン・カルテットでの演奏との差別化を図らねばならないという事情があったようだ。彼をビル・エヴァンスやオスカー・ピーターソンと並ぶスター・ピアニストにしたいというインパルス側の思惑もあったらしいが。ともあれ、そんな環境下、制作された『インセプション』『バラードとブルースの夜(Nights Of Ballads And Blues)』などもよく聞いた。
その後、1965年いっぱいでマッコイはコルトレーンのレギュラー・バンドを脱退。当時、凄まじい勢いでスピリチュアルかつフリーな方向へと傾倒しつつあったコルトレーンへの疑念から袂を分かつことになったらしい。新天地ブルーノート・レコードへと移籍。今、自分がやりたい音楽はこれなんだとシーンに提示する傑作リーダー・アルバムを次々リリースしていった。この時期の勢いもたまらない。『ザ・リアル・マッコイ』とか『テンダー・モーメンツ』とか『タイム・フォー・タイナー』とか、この辺も後追いでではあったけれど、よくジャズ喫茶とかで聞かせてもらった。
とはいえ、この時期、マッコイがコルトレーンの音楽を嫌いになったとか、否定したとか、そういうわけではなかった。特に脱退から1年半後の1967年7月、コルトレーンが他界してからは、むしろコルトレーンの正統な継承者として自らの音楽を真摯に研ぎ澄ましていくことになる。その思いがさらに顕著になっていくのが1970年代、マイルストーン・レコードに移籍してからの時期だ。
この時期にはぼくも間に合った。ぼくがリアルタイムでマッコイの凄味を思い知ったのがこのマイルストーン時代。ライヴも体験できた。強烈だった。名作アルバム『サハラ』をリリースしたあと、1972年に実現した来日公演とか。すごかった。サックスがソニー・フォーチュン、ベースがカルヴィン・ヒルズ、ドラムがアルフォンス・ムザーンというカルテット。新宿厚生年金会館だったと思う。まだ日本のPA技術も発展途上だったのか、音が凶暴に歪みまくっていたっけ。そのディストーション交じりのパフォーマンスが、ステージ上の4人の勢いと相まって、当時まだ高校生だったぼくにとてつもない高揚感を投げつけてくれた。ジャズって、まじすげえなと思い知った。
あと、確か1975年。アルバムで言うと『サマ・ラユーカ』を出したあとくらいの時期に郵便貯金ホールで行なわれた来日公演にもぶちのめされた。ぼくは大学生になっていて。チケット発売日、プレイガイドに朝早くから並んでゲットした最前列!の席に、大学で知り合った友達のホシノと一緒に陣取って、かぶりつきで堪能した。マッコイの他、サックスがエイゾー・ローレンス、ベースがジュニ・ブース、ドラムがウィルビー・フレッチャー、パーカッションがギレルミ・フランコというクインテット編成。強烈なリズム隊をバックに、マッコイとエイゾー・ローレンスとギレルミ・フランコと、お互いの煽り合い、つぶし合い、絡み合い、反発し合いがすごかった。
そして、かなわぬ思いではあるけれど、コルトレーンとマッコイとの触発し合いもこんなふうに生で体験できていたらなぁ…と。マッコイの背後にどうしてもコルトレーンの影を感じてしまい、見果てぬ夢を改めて意識したりもした。失礼な話だ。申し訳ない。でも、マッコイ自身、のちにこんなことを述懐している。
「ジョン(コルトレーン)から離れようとすればするほど、彼の音楽がわたしの音楽に重なってくる。呪縛としか言えないが、そのうちそれが宿命と思えるようになってきた。天に召されたジョンからの啓示なのかもしれない」
コルトレーンの呪縛から必死に逃れようとしていたときよりも、彼の存在をすべて受け容れて以降のほうが、マッコイは彼ならではの真のオリジナリティを手に入れることができたような、そんな気もする。深いな、ジャズは。そして、人生は。
マッコイはコルトレーン・バンド脱退後も、コルトレーンが生前に書いた名曲をたびたび演奏してきた。ぼくはコルトレーンが最初の妻に捧げる曲として1959年の名盤『ジャイアント・ステップス』で発表した美しいバラード「ナイーマ」を演奏するマッコイが大好きだった。1978年にサンフランシスコで収録されたライヴ・アルバム『ザ・グリーティング』、1991年にポーランドで録音された『ライヴ・イン・ワルシャワ』、1989年に新生ブルーノートからリリースされたアルバム『昔はよかったね(Things Ain't What They Used To Be)』などで、機会があるたびにこの曲を採り上げている。
そんな中、先述した1972年の来日の際、コルトレーンへのオマージュとして日本で録音したソロ・ピアノ・アルバム『エコーズ・オヴ・ア・フレンド』に収められていたヴァージョンを追悼曲としてYouTubeからこちらに貼っておきます。繊細かつ詩情豊かに音を紡いでいったかと思えば、激しく、強く、持てる情熱のすべてを鍵盤に叩きつけてみせる。ダイナミックに強弱/緩急をつけながら、もともと透徹した美に貫かれた本曲からさらなる美しさを引き出した名演だ。コルトレーンへの深い敬愛の念とともに、ジャズという文化そのものへの愛と感謝がこめられているような…。
たくさんの感動と高揚をありがとう。どうか安らかに。