追悼: ディック・デイル
内田裕也さんの訃報に胸がざわめいた朝、もうひとつ、ショッキングな悲報が届いた。
1960年代初頭、“サーフィン・サウンド”という言葉をシーンに定着させたキング・オヴ・ザ・サーフ・ギター、ディック・デイルの他界。クエンティン・タランティーノ監督による94年の映画『パルプ・フィクション』の主題歌として印象的に使われていた「ミザルー」を弾いた凄腕ギタリストといえば、ピンとくる方もいらっしゃるだろう。そんなディック・デイルが現地時間3月16日の夜、亡くなった。享年81。数年前のインタビューで、彼は直腸癌と何度も闘っており、しかもサーフィンをしていたときに負った古傷にも苦しめられながら、しかし治療にかかるけっして安くないお金を稼ぎ続けるため、痛みと闘いながら変らず精力的にツアーをしているんだ、というようなことを語っていた。凄腕ギタリストならではの凄絶な人生。そんな長い闘いの日々もようやく終わりを迎えた。
1937年、マサチューセッツ州ボストン生まれ。父はレバノン人、母はポーランド人。子供のころから父方の親戚たちが演奏する中東の音楽に囲まれて育ったそうだ。ハンク・ウィリアムスのようなブルージーなカントリー音楽も大好きだったという。最初はトランペット、続いてウクレレ、最終的に友人から8ドルで譲ってもらったギターを手にして自らも演奏するようになった。50年代半ば、17歳のころサザン・カリフォルニアへ移住。本格的に音楽活動を開始した。
自身、熱心なサーファーでもあったデイルは、サーフィンをしているときの極上の爽快感を音楽で再現したいと考えた。そこで、まず強烈なアタック感を演出するために、いちばん細い1弦が0.016、太い6弦が0.060(3弦が巻弦!)という、とんでもなく太いゲージの弦をエレクトリック・ギターに張った。続いて、海っぽいウェットなイメージを取り入れるためにギター・アンプのリヴァーブを思いきり深くかけた。さらに、子供のころから親しんできた中東の打楽器、ダラブッカの連打テクニックを応用する形で、低音弦を中心にスピーディなアップ&ダウン・ピッキングを繰り返すオルタネート・ピッキングを開発。これらを融合しながら雄大な波のうねりを表現してみせた。この彼独自のギター・スタイルを表わすために61年夏、デイルは“サーフィン・サウンド”という言葉を用いたらしい。
大滝詠一師匠は、このスタイルを“太棹”と呼んでいたっけ(笑)。
週末になるとバルボアの《ランデヴー・ボールルーム》に出演。毎週何千人もの観客を集めていたという。全米レベルでヒットした彼のレコードということになると、61年から62年にかけて全米60位にランクされた「レッツ・ゴー・トリッピン」と、63年にたった1週間だけ98位にチャートインした「ザ・スキャヴェンジャー」の2曲のみ。だが、ローカル・レベルでの人気はすごかった。ローカル・ヒットにとどまった作品の中にも「ミザルー」(62年)、「サーフ・ビート」(62年)、「ザ・ウェッジ」(63年)、「サンダー・ウェイヴ」(64年)など、誰にも真似のできない強烈な名演が数多くある。デイルは確実にこの時代、南カリフォルニアのスーパー・スターだった。
ディック・デイルの大活躍に刺激を受けた地元のティーンエイジャーたちは、次々とバンドを結成した。練習場所はメンバーの家のガレージ。南カリフォルニア各地のハイスクールを中心に、その周りで無数のガレージ・バンドが躍動的なロックンロールを演奏しはじめた。その中からシャンテイズ、サーファリズ、ピラミッズ、そしてビーチ・ボーイズなど、全米チャートに食い込むバンドが誕生していくことになる。
サウスポーだったディック・デイルは右利き用の普通のエレクトリック・ギターを、そのままくるりとひっくり返した形で演奏していた。左利き用のモデルを使うことも多かった。が、弦は右利きのまま。つまり、太い6弦が普通とは逆にいちばん下、細い1弦がいちばん上。それがなかなか他のギタリストには真似のできない強烈な低音トルネード・トレモロ・ピッキングを可能にしたわけだが。このサウスボー・スタイルは、弦の張り方は違えど、かのジミ・ヘンドリックスにも大きな影響を与えたらしい。ジミ・ヘン自身、そう告白していた。強烈なアタック感やトリッキーなフレージングにはエディ・ヴァン・ヘイレンも大いに触発されたという。87年の映画『バック・トゥ・ザ・ビーチ』のサントラ盤には、なんとスティーヴィー・レイ・ヴォーンとの共演による「パイプライン」が収められていたが、それを聞くとレイ・ヴォーンもまた確実にディック・デイルズ・チルドレンだったことがわかる。
本当に偉大なギタリストだった。どうか、安らかに。