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When My Niagara Moon Turns To Gold Again…

ナイアガラ・ムーンがまた輝けば…

かつてどこかの雑誌で書かせてもらった覚えもあるのだけれども。ファンの方ならばみなさんご存じの通り、大滝詠一という人の語り口は独特だ。とぼけているような、はぐらかしているような…。どんなにシリアスな話題を口にしているときでも、常に機知に富んだ、鋭いユーモア感覚が全編にまぶされていて。どこまで本気なんだか、冗談なんだか。こちらはその振り幅の大きさに半ば戸惑い気味に、半ば心地よく、翻弄されるばかり。

オフィシャルな場でインタビューさせていただいているときも、プライベートな場で言葉を交わさせていただいているときも、いつもそんな感じだった。が、そうこうするうちに、大滝さんを含め、その場に居合わせた誰かが無意識のうちにふと口にしたひとことをきっかけに様相が一変する。一見取るに足らないそのひとことに潜む真実のようなものを大滝さんが的確にすくい上げた瞬間、そこを起点に話は一気に核心へ。以降はめくるめく展開。そんなときの閃きに満ちたスピード感とダイナミックなスケール感がぼくは大好きだった。

そういえば、これはごくプライベートな場での話で。きわめて私的な思い出話でしかないのだけれど。今ではすっかり大滝ファンの間に定着したように見える“ナイアガラー”という言葉。あれももともとはずいぶんとくだらない会話の中から生まれたものだったっけ。

1990年代半ばのこと。言い出しっぺはぼくの妻でもある能地祐子。泉ピン子みたいにシャネルが大好きな“シャネラー”や、安室奈美恵に憧れる“アムラー”がいるなら、大滝詠一を愛する“ナイアガラー”がいてもいいじゃないか、と。そんな能地の思いつきから発せられた言葉の語感が大滝さんの閃きにスイッチを入れたらしく。大滝さんは能地を相手に、圧倒的な勢いでナイアガラーなる人種の定義をぐんぐんディテールに分け入りつつ編み上げていった。あの日の爆笑まみれの高揚感は忘れられない。

ボケにボケを幾重にもかぶせ続けるような、まあ、要するにそういう他愛もない会話ではあったものの。その背後には、何かにのめり込むファン/マニア気質というものの文化的・歴史的背景に対する深い解析もきっちり横たわっていて。最高にスリリングだった。大滝詠一という人の知識/知恵の幅広さと、自ら作り上げてきた音楽をシニカルに対象化しきっているクールな佇まいに改めて舌を巻いたものだ。

“ナイアガラー”という言葉はいわば“大滝詠一ファン”と同義なはず。なのに何かが違う。その“何か”こそが大滝詠一という文化の本質に大きく絡んでいる気がするのだけれど。このあたりも、音楽という分野にだけとどまっていては感知し得ない大滝さんの雄大な魅力の鍵なのだろう。もうあのときのようなスリリングな瞬間をリアルタイムに味わうことができないのか…。本当にそうなのか。いまだに信じられない。残念でならない。

そんなことをぼんやり考えていたら、10年以上前、レコード・コレクターズ誌に寄せた文章のことを思い出した。音楽家として以外の大滝さんの活動についてざっくりまとめたものだ。長めの文章だけれど、ここに再掲しておこうと思う。ずいぶんと前の原稿なので、原稿の出版状況とか登場してくる固有名詞とか、現状と合っていなかったり古くさかったりする個所も少なくない。そのあたりご了承のうえ、お時間あるときにでも目を通していただければうれしいです。


大滝詠一(本紙評論家)。

そんな文字が「スポーツニッポン」の紙面を飾ったのは、いつだったっけ。あれは異常に盛り上がった。長嶋が読売ジャイアンツの監督に復帰した年だったと記憶しているので、1993年の初春か。

もちろん、93年以前も大滝氏は…いや、本稿ではあえて“大滝師匠”と呼ばせていただきたいのだが、折に触れてプロ野球にまつわるあれこれを披露してくださってきた。そのすべてが新鮮な発見に満ちた素晴らしいものだったこともあり、ぼくは自らのプロ野球観戦のもっとも良きガイドとして師匠の私的解説を位置づけていた。まだインターネットも一般的になっていない時期。お会いして直接うかがう以外、当時は主にファックスやパソコン通信のメール、チャット、あるいはメンバー限定のパソコン通信個人向け会議室を利用してのやりとりだった。様々なラジオ局を渡り歩きながら続いている山下達郎との“新春放談”で、その一部が披露されることもあったし、ぼくがDJをつとめていたFM番組に“ミュージシャン”としてではなく“野球解説者”として出演していただいたことも何度か。が、スポーツ新聞に比べればちっぽけな存在。そんなクローズドな場でのみ披露されていた師匠の鋭い野球解説がついに公のものになる日がやってきたのだ。音楽のみならず、大滝師匠の野球解説ファンでもあったぼくは大いにコーフンしたものだった。

確か、その年、師匠はこんなことをおっしゃっていた。74年、長嶋が現役を引退したとき、自分はジャイアンツ・ファンではなく長嶋ファンだったと気づいた。エルヴィス・プレスリー、クレイジーキャッツ、小林旭をはじめとする日活アクション映画ともども、長嶋も自分の中に常に生き続けていた存在だったと思い知った。そんな長嶋は現役引退後、すぐにジャイアンツの監督に就任したものの、80年10月、衝撃の解任劇。大滝さんは、ああ、俺の時代が終わる…と嘆いたそうだ。

そんなふうにジャイアンツを追われた長嶋が、しかし奇跡の監督返り咲き。発足したばかりのJリーグのバブリーな人気爆発に対するプロ野球界の巻き返しという使命さえ託された復帰劇だった。とはいえ、このときももし以降3年で全く結果が出なければ再度の解任は必至。とすれば、ひょっとして自分はあと3年しかプロ野球を楽しめないかもしれない。これは師匠にとってアルバム制作以上の大問題。というわけで、普通なら“死んでも乗りたくない”飛行機に乗って、ジャイアンツのキャンプ地である宮崎へ。これは『ナイアガラ・トライアングルVOL2』のプロモーションのためにハワイを訪れたとき以来の搭乗だったとか。飛行機嫌いの師匠にしてみれば、命がけの宮崎入りだ。命がけで長嶋を応援していることの証だった。

で、その春、スポニチには『大滝詠一~長嶋論ナイアガラ風味』なる連載コラムが掲載された。新聞特有のリライトが加えられていたらしく、普段の“切れ”が少々削がれていた感もあったけれど、ここでぼくが強調しておきたい最大のポイントは、大滝詠一は野球にも“命がけ”になるということだ。命がけだからこそ、本気だからこそ、深い洞察に貫かれた独自の野球論が展開できる。その年の5月2日の巨人×ヤクルト戦のことも忘れられない。大滝さんのラジオ野球解説者としてのデビュー戦。ご存じ深沢アナと田尾安志とともに生中継を盛り上げた。初回の古田敬遠に関するコメント、まさかの三盗の予告、ルーキーだった松井の初ホームラン後のコメントなど、単なる勝ち負けを超えたところにあるプロ野球の奥深さを的確に浮き上がらせる、実に聞き応えある放送だった。

相撲も、詳しい詳しい。これまた幼少のころから熱心に観戦してきたせいか、幕下力士まで含めて、本当に各力士の持ち味をよく知っている。それだけでなく、各部屋の特徴、相撲協会内の力関係や構造などまで師匠の検証作業は及んでいる。それをもとに場所ごとの優勝力士予想のみならず、場所途中の星取展開まで見事予測してみせる。そうそう。師匠が最初に来たるべき相撲ブームの再燃を予言したのは、確か80年代初頭のこと。当時は誰も信じなかったものの、その後若貴が登場し、“貴リエ”騒動まで勃発。ほぼ10年先駆けての見事な予言だった。

あとスポーツ関係では、アメリカン・フットボールにも造詣が深い。第27回スーパーボウルで、ダラス・カウボーイズのディフェンスがバッファロー・ビルズのクォーターバック、ジム・ケリーに対し凄まじいパスラッシュをかけ続け、とうとうケリーを故障させて控えのフランク・レイスを引きずり出したことがあったけれど、ぼくはテレビでその模様を見ながら驚いた。実はその前日、師匠はダラスの殺人ディフェンスがケリーを潰して退場させると予言していたのだ。恐るべし。

そういえば、また野球の話に戻るが、去年の日本シリーズ直前、大滝さんと食事をしたときのこと。大滝さんはこう断言した。

「ダイエーには斎藤だな。あと、尚成。ああいうのが意外といけるんだよ」

プロ野球ファンならば誰もが、この予言も見事的中したことをご存じだろう。さらに言えば、日本シリーズ前の段階で、斎藤はともあれ、高橋尚成の大健闘を予測したプロ評論家は誰ひとりいなかったはずだ。

ジャイアンツ投手陣の力量だけでなく、ホークスの打線の特徴にも精通しているからこその的確な予言。そう。師匠は、ジャイアンツ/長嶋のファンだからといって、ジャイアンツの事情しか知らないというのではないのだ。12球団すべてに詳しいからこその鋭いまなざしと新鮮な切り口。この、贔屓チームはあっても12球団すべてに詳しい…というのが、実はもっとも大滝詠一らしい一面だ。子供のころも、月刊『少年』がお気に入りのマンガ雑誌だったそうだが、それだけではなく、昭和20年代後半には『漫画王』『冒険王』『少年画報』、昭和30年代になると『少年サンデー』『少年マガジン』も加えて、読みあさっていたのだとか。これもたぶん80年代初頭だったと思うが、久和ひとみ、安藤優子らが「CNNヘッドライン」を担当し始めたころからすでに各局の女子アナウンサー/キャスターひとりひとりに精通し、いち早く女子アナ・ブームを予見してもいた。

3月21日に新宿ロフト・プラスワンで行なわれたCRT&レココレの主催イベントで、ゲストに招いたダイナミックオーディオ秋葉原サウンドハウス店の中村店長が披露してくれたエピソードによれば、師匠はオーディオを買うとき、必ず同じ機種を3つ用意してそこから選ぶのだとか。気に入った機種は、さらに何台もまとめて購入し同時並行で使ったりもするとか。そういえば、ぼくがはじめて師匠のお宅におじゃましたとき、ビデオ用の部屋というのに足を踏み入れてぶっとんだ。壁一面がビデオテープというマニアはそこそこいると思うが、師匠のビデオ部屋は壁一面がビデオデッキで埋め尽くされていたのだ。屋根をパラボラアンテナだらけにしていた時期もあったようだし。

そんなビデオ三昧の時期が過ぎたころ、再びお宅におじゃましたら、今度は壁一面がパソコンで埋め尽くされたパソコン部屋ができあがっていたっけ。

その後、オーディオ三昧の日々へ。総額700万円とも噂される現在の師匠のオーディオ・システムが完成するまで、お宅に運び込まれたオーディオ機器はいったいどのくらいあったのだろう。どでかいJBLのスピーカーの位置を一人で変えようとして、スピーカーの下敷きになって動きがとれなくなったりしているらしいし…。

一を知るには十を知れ。そんな徹底したアティテュードは、つまり師匠が興味を向けるジャンル群にも当てはまるわけだ。というわけで、スポーツ、落語、映画、文学、オーディオ、コンピュータ、芸能ゴシップ、CM、政局などなど。大滝師匠は、もちろん時と場合によってではあるけれど、多くの分野に対する興味を軽々と音楽に優先させつつ、日々、考察を深め続けている。その成果を音楽に反映させるため…とか、そういうことではなく、自分自身のために多くの興味の対象に対する多種多彩な検証作業を行なっている。

先月号に掲載されたインタビュー記事をちょっと思い出してほしい。この10年ほど、新作アルバムを作るほどの気持ちの高まりがない…という件だ。

――高まりませんか、今は。
「そう。この10年で高まったのは、長嶋の復帰と日本一、それと落合騒動、それとこの前の加藤紘一の…(笑)」
――<幸せな結末>は? 高まりじゃなかったんですか。
「まあ、高まったけど。異常な高まりっていうのはその三つで。で、高まっているものっていうのは時間が占拠される、自分の。で、それを外的に表明したりすると、別にお前の<加藤の変>についての御託とか野球の解説とか聞きたくないっていう人がいるわけよ。だから表に出ないの。別にこれは人にわかってほしいとかいう種類のもんでもなくて、己の高まりなのよ…」

インターネットが日本でも実用になるようになった96年からは、いち早く自らのホームページ「アミーゴ・ガレージ」を立ち上げ、そこを舞台に、様々な検証/解析作業をオンラインで行なうようになった。開設からほぼ1年ほどは、毎日膨大な師匠の文章が次々とアップされ、読む方が追いつかないほどの勢いだった。音楽の話はほとんどなし。プロはだしの相撲話、野球話、落語話などが炸裂していた。

そのホームページの本格稼働を97年にストップ。表向きには一般的なインフォメーション・サイトのような体裁になった。とともに大滝師匠は久々にミュージシャンとして新作シングルの制作にとりかかったわけだが。この動きにも、先に引用した発言、つまり“高まり”には時間を占拠されるという師匠の性癖が表われている。以降、「アミーゴ・ガレージ」は時折最新インフォメーションが掲載される程度のまま。加えてこの原稿を書いている2001年3月末現在、ドメイン移行絡みのトラブルで閲覧不能になってしまっている。が、実は師匠は、別の場をクローズドな形で用意し、そこで日々、野球、相撲、政局、事件、芸能など、様々な話題についての深く鋭い考察を限られたメンバーに向けて披露し続けている。

いや、披露しているわけじゃないか。自分のために掘り下げ続けているのだ。公にせよクローズドにせよ、そうした発表の場がなくても師匠は常に、以前はテグレット社の「知子の情報」、現在はマイクロソフトの「アウトルック」というコンピュータ・ソフトを開発者以上の情熱をもって徹底的に駆使し、膨大な容量の検証作業をファイルしてきた。こうした、ミュージシャン以外の部分での動きが大滝詠一~ナイアガラという存在をさらに深く、豊かな、そして謎めいたものにしているわけだ。

いわば、論客。仲間うちでは、ビートたけし、上岡龍太郎の後を担うのは、もはや日本では大滝詠一以外ないのでは…とさえささやかれたほどだ。いや、けっこう、まじに。実際、ミュージシャンとしてではなくコメンテイターとしてのテレビ出演をマスコミ関係者から真剣に勧められたこともあるという。

もちろん音楽絡みの分野でも、論客としての資質を存分に発揮している。パフォーマーとしての大滝詠一、プロデューサー/ソングライターとしての大瀧詠一、アレンジャーとしての多羅尾伴内、Rinky O'hen、宿霧十軒、レコーディング・エンジニアとしての笛吹銅次など、大滝師匠が多くの変名を使い分けていることはおなじみだろう。そうした変名/別名のうち、主に文筆関連を担当しているのが、我田引水、厚家羅漢、素家羅漢ら。これらの変名、あるいはベーシックな大滝詠一名義のもと、大滝師匠はフランキー堺とシティスリッカーズ『スパイク・ジョーンズ・スタイル』(85年)、クレイジーキャッツのベスト・ビデオ『クレイジーキャッツ・デラックス』(86年)、トニー谷『ジス・イズ・ミスター・トニー谷』(87年)、『アストロノーツ』(90年)、橋幸夫『スウィム・スウィム・スウィム』(90年)、東京ビートルズ『ミート・ザ・東京ビートルズ』(94年)といった多彩な再発CD/ビデオを監修し、詳細なライナーの執筆を行なってきた。フランキー堺、クレイジーキャッツ、トニー谷など、コメディ系のアーティストの作品を的確にコンパイルするにあたっては、小林信彦、高田文夫ら、その道の権威すらうならせる師匠ならではのお笑い、あるいは日本映画に対する深い造詣と愛情が物を言っていることは間違いない。橋幸夫や東京ビートルズの音源の編纂に関しても、同じベクトルのまなざしが貫かれていた。

ライナーのみの執筆だと、他にフィル・スペクター『クリスマス・ギフト・フォー・ユー』(88年)、エルヴィス・プレスリー『フロム・ナッシュヴィル・トゥ・メンフィス~エッセンシャル60'sマスターズ1』(93年)など、力作がある。特に原稿用紙250枚に及ぶエルヴィス箱のライナーノーツは、ミュージシャン、エンジニアを含めた形でエルヴィスの60年代録音を振り返り、エルヴィス自身の歩みとともに、それらが60年代アメリカン・ポップスに与えた影響にまで言及したものに仕上がっていた。単なるライナー/曲目解説を超えた、読み応えのあるアメリカン・ポップス論だった。伝記本『フィル・スペクター/甦る伝説』(90年)の解説も、本編以上に示唆に満ちた仕上がりだった。

大滝詠一名義で受けたインタビューそのものが、優れた音楽論になっている場合もある。そのひとつが83年、『FMファン』誌で相倉久人氏を聞き手に展開された“分母分子論”。歌謡曲を中心とする日本ポップス史の発展/展開の流れを新たな切り口からとらえ直そうとする試みだった。その切り口の精度をより高め、さらなる深みへと達したのが91年、ぼくが監修/執筆した『03臨時増刊号/ポップス・イン・ジャパン』に掲載された“ポップス普動説”だ。どちらも現在オリジナルの形で再録されているメディアがないので、読みたいと思っても入手が困難な状態だと思うが、ファンならば必読。この二つのインタビュー記事で展開された理論こそが大滝師匠の物の見方を決定づけているのだから。のちの「アミーゴ・ガレージ」などでの文章を読み返してみると、音楽ばかりでなく、野球も、相撲も、映画も、政治も、様々なものを、大滝師匠は“普動説”の基本理念を当てはめながら切っているように思える。もちろん、NHK-FMで95年と99年にオンエアされた番組『大滝詠一の日本ポップス伝』の根底にも同じ理念がきっちりと流れていた。かつてラジオ関東でオンエアされていた70年代の『ゴー・ゴー・ナイアガラ』がアメリカン・ポップスを中心に、そこにクレイジーキャッツや諸々の訳詞ポップスを少々加味したテイストをたたえていたのに対し、80年代、TBSへと舞台を移してからの『ゴー・ゴー・ナイアガラ』や、『ポップス伝』を含む以降の特番ものが日本歌謡史的な内容になっているのが面白い。DJ大滝詠一の活動も歳月を経て着実に深みを増しているということか。

と、こうして書き連ねてみると、大滝詠一~ナイアガラをまるごと理解しようとするのはどだい無茶な試みなのだろうなと思い知る。音楽活動を休止しているように見える時も、大滝詠一は水面下で大きく動いているのだ。

(2001年3月記)

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