ハリー・ニルソンの肖像
ニルソンは1941年6月15日、ニューヨークのブルックリン生まれ。本名はハリー・エドワード・クリストファー・ネルソン三世。1958年、両親が離婚し、母親と姉とともに南カリフォルニアへ移住。やがてLAのハイスクールに通うようになり、野球とバスケットボールに明け暮れていたそうだ。卒業後、あれこれ身の振り方を模索。いったんニューヨークに戻ったという説もあるし、家を出てヒッチハイクしていたという説もある。5年ほどそんな日々を過ごしたのち、LAで劇場の座席案内人の職を経て、サン・フェルナンド・ヴァリーの銀行に就職した。
このころ、すでに音楽業界で働きたいという夢を抱いていたらしい。1977年にミュージカー・レコードから突然リリースされた『Nilsson : Early Tymes』というアルバムに彼の初スタジオ・レコーディングが全11曲収録されているが、クレジットによるとヴォーカルは1960年の秋、ハリウッドの小さなスタジオで録音されたとのことだ。これは作曲家/ギタリストのスコット・ターナー[1]Scott … Continue readingが自らの楽曲をニルソンに歌わせたもの。某音楽出版社に単身売り込みに出向いたニルソンは、そこではじめて出会ったターナーに、自分が作曲もでき歌も歌えることを伝え、それを証明するためにまず歌ってみせた。ターナーはその瞬間のことを「彼は間違いなく、これまで私が聞いたうち最高のシンガーだと確信した」と述懐している。次は作曲ができることの証明だ。その夜、ターナーとニルソンは早くも「ア・トラヴェリン・マン」という新曲を共作(ニュー・クリスティ・ミンストレルズやスリム・ホイットマンがレコーディングしている)。この若き才能にすっかり感服したターナーは、何日か後、ニルソンを引き連れてハリウッドのスタジオに入り、『Early Tymes』に収録された11曲を録音した。ニルソンの自作曲は収録されていないのでファンには物足りないかもしれないが、なんとジェームス・バートン、レジー・ヤング、ジョー・オズボーン、ハル・ブレイン、ハーブ・アルパート、レオン・ラッセルらも参加していると言われる豪華なバンドの演奏をバックに、19歳のニルソンがすでにテクニック抜群のヴォーカルを聞かせているのだ。今聞いても「彼はどの曲もほんの5分で自分のものにしてしまった」とターナーを驚愕させた卓越した音楽センスは十分に確認できる。
が、こうした売り込みもあまり功は奏さなかった。ニルソンは結局、銀行員としての仕事を継続。60年代半ばにはコンピュータ開発部に身を置き、32人の部下をさばきながら仕事をしていたという。このころの経歴を取り沙汰して、70年代、日本ではよく“アメリカの小椋桂”とか、バカなキャッチコピーを冠されたりもしていたっけ。銀行員として勤めながら、同時にピアノやギターや作曲の腕を磨くことも忘れなかった。銀行の仕事は夜勤でこなし、日中はスタジオに出入りしたり、音楽出版社やレコード会社を回ったり、ラジオのCMソングを歌ったり。銀行員としては“ハリー・ネルソン”、音楽家としては“ハリー・ニルソン”。名前を使い分けながら地道な創作活動にはげんだ。この時期の成果としては、かのフィル・スペクター[2]Phil … Continue readingの目に止まり、ロネッツに2曲、モダン・フォーク・カルテットに1曲を提供したことや、のちにニルソン自らのアルバムにも収録された「カドリー・トイ」をモンキーズが、「テン・リトル・インディアン」をヤードバーズが、それぞれ取り上げたことだろう。自らシンガーとしても、タワー・レコードに何枚かのシングル、そして67年にはアルバム『Spotlight on Nilsson』を残した。共作を含め自作曲が6曲、カヴァーが4曲。バリー・マクガイアばりに声を振り絞ったフォーク・ロック系のものから、ロックンロール系、R&B系、スペクター的なアンサンブルのもの、ノスタルジックなものまで。すでに柔軟でアイデア豊かなソングライティング・センスと、それらをすべて見事に歌いこなす素晴らしいヴォーカリストとしての力量が記録されている。
そして、ようやく長かった二重生活にピリオドを打つときがやってきた。67年、RCAがニルソンと長期に渡るソングライティング/パフォーミング契約を結んだのだ。モンキーズの「カドリー・トイ」がラジオでかかったことにも勇気づけられ、これをキッカケに68年、長年つとめた銀行をやめて本格的な音楽活動へと足を踏み入れた。実質上のデビュー・アルバム『パンディモニアム・シャドウ・ショー』は67年暮れにリリース。プロデュースがリック・ジャラード、アレンジがジョージ・ティプトンとペリー・ボトキン・ジュニア[3]Perry … Continue reading。ビートルズ・ナンバー2曲、フィル・スペクターもの1曲のカヴァーも含む充実した1枚だった。「カドリー・トイ」、「テン・リトル・インディアン」などの自演ヴァージョンも収録されている。本盤は70年まで日本では紹介されずじまいだったため、評価も何もなかったが、本国アメリカの評論家筋でのウケはやたらよかったようだ。《ロサンゼルス・タイムズ》のピート・ジョンソンなど、3オクターブの声域、カメレオンのようにくるくる表情を変えながらもアイデンティティをけっして失わない声質、完璧なフレージング、たった一人で複雑なハーモニーまでこなすテクニック、ずば抜けたイマジネーションなど、もう手放しで絶賛している。そして、もうひとつ、このアルバムに関しては有名なエピソードがある。当時、ビートルズのアップル・レコードのプレス・オフィサーに新任し、LAからロンドンに向かったデレク・テイラー[4]Derek … Continue readingがこのアルバムをビートルズ[5]The … Continue readingのメンバーに聞かせた。特にジョン・レノンは大いに感激。36時間、本盤を聞き通し、国際電話でニルソンにその感動を伝えた。
“It's John…John Lennon. Just wanted to tell you that your album is great! You're great!”
というのが、そのときのジョンの有名なセリフだ。アップル・レコードがニルソンを傘下に加えようと交渉したというエピソードも残っている。このアルバムはセールス的には失敗に終わったものの、ニルソンの豊かな才能を業界にアピールするうえでは大きな成果をあげたわけだ。本盤の作品をカヴァーしたアーティストは多い。トム・ノースコットとビリー・J・クレイマーが「1941」を、ブラッド・スウェット&ティアーズ(アル・クーパー)、ジャック・スコット、ハーブ・アルパートが「ウィズアウト・ハー」を、そしてケニー・エヴェレットが「ひさしぶりの口づけ」をそれぞれのアルバムでカヴァーしている。ニルソンへの評価は、まず才能豊かなソングライターという形で確立された。
68年にリリースされた『空中バレー』は発売当初たいした反響も呼ばなかったものの、翌年に入ってかなりの売り上げを記録した。収録曲のうち、「トゥゲザー」がサンディ・ショーによって、「ワン」がスリー・ドッグ・ナイト[6]Three Dog … Continue readingやアル・クーパーによって、それぞれカヴァーされたせいもある。特にスリー・ドッグ・ナイトの「ワン」は全米5位に達するヒットを記録。これによってニルソンの知名度も上昇。本人のヴァージョンによる「ワン」もアメリカでは大いにエアプレイされたそうだ。が、それよりもアルバムのB面トップに収録されたフレッド・ニール[7]Fred … Continue reading作の「うわさの男」が映画『真夜中のカーボーイ』のテーマに使われ大ヒットした影響が大きい。同シングルは69年に全米チャート最高6位まで上昇。ニルソンはこのヒットで、グラミー賞の最優秀コンテンポラリー・ヴォーカル・パフォーマンス男性部門も獲得している。
実のところ、ニルソンはこの映画のテーマとして自作の「孤独のニューヨーク」(アルバム『ハリー・ニルソンの肖像』に収録)という曲を用意していた。が、これがボツ。代わりに取り上げたのが「うわさの男」だった。『空中バレー』の収録曲中唯一の他人の作品だが、この皮肉な初ヒットのおかげで、当初は優秀なソングライターとして業界内で固まりつつあったニルソンのパブリック・イメージが徐々に姿を変えていった。歌のうまいシンガーとしてのニルソン、と。そういうことだ。自らソングライターとして卓抜したセンスを持ちながら、大ヒットするのはシンガーとして他人の曲を取り上げたときだけ。71年から72年にかけて、彼にとって唯一の全米ナンバーワン・ヒットを記録した「ウィズアウト・ユー」も、バッドフィンガー[8] … Continue readingニルソンの代表的ヒットというと、すぐに思い出すのが「うわさの男」と「ウィズアウト・ユー」だが、そのどちらも他人のペンによる作品であり、グラミーにおいても“シンガー”としてのみ賞を与えられているわけだ。そういえば、日本でのデビュー盤にあたる大傑作アルバム『ハリー・ニルソンの肖像』(69年)がそこそこ話題になって、新しいタイプのシンガー・ソングライターの誕生だ、さあ、次のアルバムは…? と期待していたところにリリースされた『ランディ・ニューマンを歌う』(70年)でも、ニルソンはシンガーに徹し、敬愛するニューマン[9]Randy … Continue readingの名曲をあたたかく、淡々と歌い綴るばかりだった。もちろん、たとえば「デイトン・オハイオ1903」に「ムーンライト・セレナーデ」の一節をコーラスで見事に重ね合わせてみたり、センスいいアイデア・マンとしての側面もそこそこ強調されてはいたけれど。この辺のもろもろがニルソンに対する一般の評価をあいまいなものにしている大きな原因なんじゃないかと、ぼくは思う。
「うわさの男」には、もうひとつ、ニルソンのその後を予見させる要素が読み取れる。映像に絡んだ曲、という点だ。ニルソンは映像がらみの作品を数多く残している。『真夜中のカーボーイ』とほぼ同時期、68年にはオットー・プレミンジャー監督の映画『Skidoo』のスコアを担当したし、69年にはテレビのシチュエーション・コメディ『The Courtship Of Eddie's Father』の主題歌「ベスト・フレンズ」および劇中音楽も手掛けた。70年には自ら脚本も担当したアニメ特番『オブリオの不思議な旅』のサントラも発表。この時期、ミュージカルにも手を出そうとしていたらしい。74年にはリンゴ・スター制作による映画『吸血鬼ドラキュラ二世』に主演。もちろんサントラも担当した。80年に手がけたロバート・アルトマン監督による『ポパイ』の映画音楽もなかなかの仕上がりだった。
ニルソンの場合、コンサート・パフォーマンスを一切やらないことでも知られていたわけだが、その辺を無意識のうちに補おうと映画/テレビに積極的にアプローチしていたのか、あるいは映像と音楽との緻密な融合にのみ興味があり、だから一過性のコンサートに消極的だったのか。本人は明解なコメントを残していないけれども。そういえば1973年、RCAのお偉方とともに突如来日を果たしたときの記者会見で、なぜコンサートをやらないのか? と質問された彼は「コンサートじゃ間違ったからといってテープを止めることはできないからね。それに、スタジオでならぼく一人でビーチボーイズのハーモニーを作り出すことだって可能だし」と発言していた。完璧主義者なんだなぁ、というのが当時のぼくの感想だったけれど、前述した映像への徹底したこだわりなどと考え合わせてみると、要するにスタジオ作業にどっぷり魅せられた極度のオタク野郎だった、と。そう解釈したほうが、なんだかニルソンらしい。
と、この辺まで、つまりアルバムで言うと『パンデモニアム…』から『ランディ・ニューマンを歌う』あたりまでがニルソンの第一期。さりげなくポップで、どことなくノスタルジックな味わいの楽曲を、時に優しく、時に渋く、七色の声で歌い分けるセンス抜群のシンガー・ソングライターとして、わりとクロウト受けしていた時期だ。が、続くアルバム『ニルソン・シュミルソン』(71年)から方向転換。敏腕プロデューサー、リチャード・ペリー[10]Richard … Continue readingにプロデュースをゆだね、ポール・バックマスターポール・バックマスター [11]Paul … Continue reading、ジム・ゴードン、ジム・プライス、クリス・スペディング、クラウス・フォアマン[12]Klaus … Continue reading、ゲイリー・ライト、ジム・ウェッブら豪華なメンバーを従え、ハリウッドで2曲、残りをロンドンでレコーディング。このアルバムに、かの特大ヒット「ウィズアウト・ユー」が含まれていた。ニルソンの活動第二期は華々しく幕を開けたのだった。続く『シュミルソン二世』(72年)も、その名の通り、続編的な内容だ。やはりプロデュースはリチャード・ペリー。ヴーアマン、プライス、バックマスター、プライン、スペディングといった前作同様のメンバーに加えて、リンゴ・スター、ジョージ・ハリソン、ニッキー・ホプキンス、ピーター・フランプトンらも参加。この2枚のアルバムでニルソンは、それまでの一見ほのぼのと優しい肌触りを捨て、徐々に持ち前の諧謔性を前面に押し立て始めた。わざとノドをつぶしたような歌い方で、どことなくひねくれたロックものを多く残している時期。ある意味では第一期よりもわかりにくい音楽性へと突入したわけだが、「ウィズアウト・ユー」の大ヒットや、豪華なバックアップ・メンバーに支えられて、この時期、「ジャンプ・イントゥ・ザ・ファイア」「ココナッツ」「スペースマン」「リメンバー(クリスマス)」とヒット・シングルもかなり生まれている。
が、なかなか一筋縄にはいかないニルソン。『シュミルソン二世』のラス曲「世界のなかで最も美しい世界」のエンディング、壮麗なストリングス・セクションに乗って“シー・ユー・イン・ネックスト・アルバム”と彼は叫んでいるのだけれど、それが予告編であったかのように、今度はなんとベテラン・アレンジャーのゴードン・ジェンキンズ[13]Gordon … Continue readingを起用し、1920~50年代の名スタンダードを全編ストリングス・オーケストラをバックに歌い綴った傑作『夜のシュミルソン』(73年)をリリースした。なんでも、タイニー・ティム[14]Tiny … Continue readingのアルバムの中に同趣向の曲が入っており、それに触発された企画だとニルソンが何かで語っていた記憶がある。このアルバムで彼はふたたびシンガーに徹し、その類稀なヴォーカルの力量をぼくたちに思い知らせてくれた。とともに、70年代前半という時代にあえて超オーソドックスなスタイルでスタンダードを歌ってみせるという、これまた大いなる諧謔の精神を実にポップな形で提示してみせたわけだ。マジと大バカの素敵な共存とでもいうべきか。この“シュミルソン三部作”が彼の第二期だろう。ポップな感覚と諧謔性がいいバランスで融合されていた時期だ。
が、その後、諧謔性ばかりが先走りするようになる。歯止めがきかなくなった。74年には、一時期オノ・ヨーコと別離し半ばアル中と化していたジョン・レノンと一気に親交を深め、彼のプロデュースで『プッシー・キャッツ』という異様な喧騒に満ちたアルバムをリリース。リンゴ・スター制作の映画『吸血鬼ドラキュラ二世』のサントラがリリースされたのもこの年だ。以降、今度はヴァン・ダイク・パークス[15]Van Dyke … Continue readingを重要なパートナーとして起用した『俺たちは天使じゃない』と『眠りの精』(ともに75年)、R&Bやドゥワップ、カリプソからジョージ・ハリソンやランディ・ニューマンの曲までカヴァーしまくった『ハリーの真相』(76年)、RCAからの最後のリリースとなった『クニルソン』(77年)とアルバムをコンスタントに発表。これが第三期にあたる。この時期の作品はハマるとすごい。ぼく自身、こうした一連のアルバムに聞かれるニルソンのすさまじい屈折具合やねじれたポップ・センスのトリコになったものだ。今でもときどきこの辺のアルバムを引っ張りだしては、ヤケクソ気味に盛り上がったりするのだけれど。が、冷静な視点で見れば、やはりこれは混乱と衰退を象徴する作品群なのだろう。酔っぱらいの気まぐれのような楽曲が多いことも事実だ。他人のアルバムにちょくちょく参加するようになったのもこの時期だけれど、リンゴ・スター、ジョン・レノン、キース・ムーン[16]Keith Moon
ザ・フーのドラマー。75年にソロ・アルバム『トゥー・サイズ・オヴ・ザ・ムーン』をリリースしている。78年に他界。など、ほとんど酔っぱらい仲間のような人脈の作品ばかり。ニルソンの本格的な活動期は、ここで終わりと考えていいだろう。
日本では1980年にビールか何かのテレビCMに「うわさの男」が使用され、ちょっと再注目されかかったこともあったけれど。その後のまともなアルバム・リリースといえば、同年、マーキュリーから出た『フラッシュ・ハリー』くらいのもの。スティーヴ・クロッパー[17]Steve Cropper
メンフィスを代表する白人ギタリスト。ブッカー・T&MGズのメンバーとして、多くの傑作R&Bをバックアップしてきた。がプロデュース。MGズのメンバーや、リトル・フィート、ドクター・ジョン、リンゴ、『モンティ・パイソン』でおなじみのエリック・アイドル(曲も提供!)、チャーリー・ドアなど、これまた豪華なバックアップを受けての1枚だったが、楽曲はたぶんRCA後期のボツ曲中心。全盛期のひらめきを取り戻すことはできなかった。その後は81年にリンゴ・スターとバーバラ・バックの結婚式に出席したというニュースが伝わった程度で、ほとんど音楽活動をせず、映画の分野で活動。80年代後半、カリフォルニアに映画配給会社を設立し、そこでの仕事に没頭しているとの噂を聞いた。
References
↑1 | Scott Turner アメリカのセッション・ギタリスト、作曲家。オーディー・マーフィーと組んで作曲した「シャッターズ・アンド・ボーズ」(ジェリー・ウォレス、63年のヒット)や「ホエン・ザ・ウィンド・ブロウズ・イン・シカゴ」(ロイ・クラーク)などが代表作だ。ニルソンと出会った60年当時は、「ティーンエイジ・クラッシュ」などのヒットで人気を博していたシカゴ出身の俳優/歌手、トミー・サンズのバック・ギタリストをつとめていた。 |
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↑2 | Phil Spector 何の説明もいらない60年代を代表するアメリカの白人プロデューサー。彼がフィレス・レコード時代に取り上げたニルソン作品のうち「ジス・クッド・ビー・ザ・ナイト」(MFQ)、「パラダイス」(ロネッツ)は去年リリースされたボックス・セット『Back To Mono (1958-1969)』にも収録されている。ロネッツによるもう1曲のニルソン作品は「ヒア・アイ・シット」。ニルソンは録音オタクの先達としてスペクターをかなり尊敬していたようで、彼が『パンディモニアム…』でカヴァーした「リヴァー・ディープ・マウンテン・ハイ」はスペクターがプロデュースしたアイク&ティナ・ターナーのヴァージョンのフル・コピー。『プシー・キャッツ』の「ラスト・ダンスは私に」も彼なりのスペクター・サウンドだろう。 |
↑3 | Perry Botkin,Jr. 50年代から活動するアレンジャー。カスケーズやロビン・ワードらとの仕事もポップス・ファンにはおなじみ。ジャック・ニッチェの後任としてフィル・スペクター配下のアレンジャーをつとめたこともある。76年には元バリー&ザ・タマレーンズのバリー・デヴォーゾンと組んでリリースした「妖精コマネチのテーマ」を全米8位にランクさせた。 |
↑4 | Derek Taylor デイリー・エクスプレス紙の記者を皮切りに、ビートルズのプレス・エージェント、ザ・バーズの宣伝担当、A&Mレコードの社員などを経て、68年、アップルのプレス担当に。『空中バレー』のライナーを書いたり、『夜のシュミルソン』のプロデュースをしたり、ニルソンとも深い交流を持っていた。 |
↑5 | The Beatles ビートルズとニルソンの関係は深い。ニルソンは「ユー・キャント・ドゥ・ザット」や「シーズ・リーヴィング・ホーム」といったビートルズ・ナンバーをカヴァーしているが、それに刺激され、ポール・マッカートニーが『ホワイト・アルバム』にニルソンっぽい「ハニー・パイ」を収録した、という説もある。が、特に交友が深かったのはジョン・レノンとリンゴ・スター。リンゴが73~74年にかけて全米1位にした「ユア・シックスティーン」でニルソンの素晴らしい一人多重コーラスが聞けるのをはじめ、曲提供を含めてニルソンはリンゴのアルバムに大いに貢献している。リンゴのほうも『シュミルソン二世』に“リッチー・スネア”名義で参加したのを皮切りに(同アルバムに“ジョージ・ハリーソング”名義で参加しているのは、もちろんジョージ・ハリソン)『眠りの精』あたりまでドラマーとして連続参加。そしてジョンだが、本文にも記したように、ヨーコと一時別居している時期、特にニルソンと密な交流をしていたようだ。74年には二人で酔っ払ってLAのライヴクラブ《トルバドール》から放り出されたことまである。 |
↑6 | Three Dog Night 60年代末から70年代にかけてダンヒル・レコードから大ヒットを連発した7人組グループ。ニルソンをはじめ、ローラ・ニーロ、ランディ・ニューマン、ポール・ウィリアムス、ホイト・アクストン、レオ・セイヤーなど、渋好みのソングライターの曲を発掘してはビッグ・ヒットに結び付けていた。世界中にニルソンの名前を広めた最大の功労者だろう。ちなみに、上記アーティスト以外にニルソンの曲を取り上げているのは、メリー・ホプキン、デヴィッド・キャシディ、ハーパース・ビザール、ルル、タートルズ、グレン・キャンベル、山下達郎など。 |
↑7 | Fred Neil フロリダ出身の白人シンガー・ソングライター。12弦ギターの名手でもあった。60年代前半、グリニッチ・ヴィレッジ周辺のフォーク・ブームに乗って活動を開始し、ジョン・セバスチャン、フェリックス・パパラルディらと交流しながらアルバムを出していたが、ほとんど不発。ニルソンによるカヴァー・ヒットで知名度を得た。以降、ジェファーソン・エアプレイン、ホセ・フェリシアーノ、ティム・バックリー、ヤングブラッズ、イッツ・ア・ビューティフル・デイ、ロイ・オービソンらも彼の曲を取り上げている。 |
↑8 | Badfinger “ビートルズの弟分”として、69年、アップル・レコードからデビューした4人組。リチャード・ペリーによれば、彼らの名曲「ウィズアウト・ユー」をレコーディングしようという計画以外、『ニルソン・シュミルソン』のレコーディングに入る段階では何ひとつ具体的に決まっていなかったとのこと。かつて来日したときの記者会見で「ウィズアウト・ユー」を取り上げた理由を聞かれたニルソンは「あの曲なら売れると思ったからさ」と答えていた。残念なことに、作者のピート・ハムは75年に、トム・エヴァンスは83年に、それぞれ自殺している。のピート・ハム&トム・エヴァンスの作品のカヴァーだった。こちらも72年度のグラミー賞最優秀ポップ・ヴォーカル・パフォーマンス男性部門を受賞。 |
↑9 | Randy Newman ニューオリンズ出身のシンガー・ソングライター。アルフレッド・ニューマン、エミール・ニューマン、ライオネル・ニューマンといった著名な音楽家を親戚に持つ。60年代初盤からフリートウッズやジャッキー・デシャノンに曲提供したり、アレンジャーとして活躍したりしたのち、68年に自らシンガーとして本格デビュー。『ランディ・ニューマンを歌う』では自らピアノでニルソンをバックアップしている。ニルソン以外にも、ジュディ・コリンズ、ニーナ・シモン、ペギー・リー、スリー・ドッグ・ナイトらが彼の曲をカヴァー。77~78年にかけて、シングル「ショート・ピープル」を全米2位に送り込んだ。 |
↑10 | Richard Perry キャプテン・ビーフハート、タイニー・ティム、リンゴ・スター、バーブラ・ストライザンド、カーリー・サイモン、レオ・セイヤーらとの仕事で知られる名アメリカ人プロデューサー。ニルソンとは1968年、フィル・スペクターがタイニー・ティムのために開いたパーティの席上で知り合った。ニルソンはタイニー・ティムのアルバムの大ファン、ペリーはニルソンの初期のアルバムのファン、ということで意気投合したらしい。 |
↑11 | Paul Buckmaster エルトン・ジョンなどとの仕事で知られるアレンジャー。ニルソンの「ウィズアウト・ユー」や、エルトンのアルバム『マッド・マン』などで聞かれるような、低音弦をフィーチャーしたダイナミックなストリングスのフレージングが特徴だった。 |
↑12 | Klaus Voorman ビートルズとの親密な交流でおなじみのドイツ生まれのベーシスト。パディ・クラウス&ギブソンを経てマンフレッド・マンにも在籍。ベーシストとしては、ニルソンをはじめ、ジョン・レノン、リンゴ・スター、ルー・リード、カーリー・サイモン、ピーター・フランプトンらのアルバムに参加している。イラストレイターとしても才能を発揮しており、彼が書いたビートルズの『リボルバー』のジャケットは66年度グラミー賞ベスト・アルバム・カヴァーを獲得。ニルソンのアルバムでも、『眠りの精』のインナー・ジャケットのイラストや、『クニルソン』のジャケット・デザインなどを手掛けている。 |
↑13 | Gordon Jenkins ネルソン・リドルとともにフランク・シナトラのオーケストラ・アレンジを手掛けていたことでも有名な名アレンジャー。作曲家としてもすぐれた曲を多く残している。『夜のシュミルソン』に収められた「ジス・イズ・オール・アイ・アスク」は彼の作品。 |
↑14 | Tiny Tim ウクレレを弾きながら震えるファルセットで歌う、という妙なスタイルで60~70年代にかけてノヴェルティ・ソングを歌いまくっていた白人シンガー。1968年に全米17位まで上昇した「ティップ・トー・スルー・ザ・チューリップ」はリチャード・ペリーのプロデュース作品。 |
↑15 | Van Dyke Parks 60年代、テリー・メルチャーやブライアン・ウィルソンと知り合い業界で活動を開始。ビーチボーイズの幻のアルバム『スマイル』は彼とブライアンとの共同作業によるものだった。66年にワーナーにスタッフ・プロデューサーとして入社。67年以降は自らアーティストとしても活動している。ニルソンのアルバムには『俺たちは天使じゃない』(75年)から『フラッシュ・ハリー』(80年)まで、ほぼ全作に参加している。やはり80年の『ポパイ』でも編曲および指揮を手掛けた。 |
↑16 | Keith Moon ザ・フーのドラマー。75年にソロ・アルバム『トゥー・サイズ・オヴ・ザ・ムーン』をリリースしている。78年に他界。 |
↑17 | Steve Cropper メンフィスを代表する白人ギタリスト。ブッカー・T&MGズのメンバーとして、多くの傑作R&Bをバックアップしてきた。 |