ラヴ・メイクス・ザ・ワールド/キャロル・キング
ちょっと前、週刊誌でコラムなども執筆なさっている論客としてもおなじみのベテラン音楽家氏と最近の音楽シーンについて話をする機会があって。そのとき彼は、日本のポップ・ミュージックのクリエイターたちは、なんだか自分の……というか、既存の狭い持ち味の内側だけで勝負をしていて面白くない、と。海外に目を向けると、たとえば昔のシュープリームスの位置にあるのがデスティニーズ・チャイルドだったりするわけで。根本からグルーヴ感とかメロディ感とか違ってきていて。それが進歩であるか退化であるかは問題外。そんなふうに時代の息づかいは大きく変化していて。それに対応した音楽があって。そこんとこに雄々しくチャレンジしてこそ、本来の“アーティスト”なんじゃないか、と。なのに、日本ではどうだ。その位置にあるのが、たとえばモーニング娘なのか。ザ・ピーナッツとか、キャンディーズとかとモーニング娘の関係は、アメリカでのシュープリームスとデスチャの関係のようになっているのか。否、と力説なさった。
確かに、ね。その通りだろう。今、確実にワールドワイドな視点で見れば“ポップなメロディ”とか“キャッチーなグルーヴ”とか、その辺の在り方が60年代、70年代と比べると大きく変わってきていて。なのに、音楽面では相変わらず鎖国状態にある日本では、メロディ的にもビート的にも、いまだ60~70年代のノウハウの中でぬくぬくしているような音楽ばかりが目立っていて。その点はぼくもそのベテラン音楽家氏に全面同感だ。何やってんだよ……って気分になることが多い。
ただ彼はその後、例として、たとえば桑田佳祐とか、矢沢永吉とか、そういうベテランの名前も挙げていて。あいつらは、だからアーティストじゃない、と。一度は海外に出ていくことを夢見たはずの彼らの今は、冒険心のない、自分の持ち味だけに依存したものに堕してしまった、と。情けない、と。まあ、お酒も入ったプライベートな席だったので、彼もあまり深い意味を込めずに発言したのだろうとは思う。で、確かにその音楽家氏は時代の変化とともに常に新しいビートを模索しながら画期的な試みを続けているし。有言実行系の立派な発言でもあったのだけれど。
ただ、ぼくはその部分に関してはどうにも納得がいかなかった。確かに、シュープリームスの位置にきっちりデスチャのような刺激的な存在があって、大ヒットを連発しているアメリカの音楽シーンはかっこいい。けど、じゃたとえばシュープリームスに当時ヒットをたくさん提供していたホーランド=ドジャー=ホーランドが今の時代に曲を書いたらデスチャみたいになるのかと言えば、そんなことはないはずだ。きっと60年代のホーランド=ドジャー=ホーランドの持ち味を何らかの形で思わせる曲を作ると思う。そうあってほしいとも思うし。それがポップ・ヒストリーってやつなのだ。で、そのヒストリーを俯瞰して眺めたときに、メロディ感覚なりビート感なりが大きく変化していて、それが頼もしく、楽しく感じれば、それでいいんじゃないか、と。
もちろん、それを日本に置き換えたとき、じゃDAIとかつんくが往年の筒美京平あたりのポップス/歌謡に対するパースペクティブなり美学なりを超えているか、変えているかというと、さっきも言ったように全然そんなことはないわけで。そこに絶望的な物足りなさを覚えるのは事実。でも、かといってそうした作業全体を桑田なり矢沢なり、ひとりのアーティストがそれぞれの個人史の中で担う必要はないんじゃないかなとぼくは考えるわけだ。桑田は桑田でいいでしょ。エーちゃんも、いかにもエーちゃんでOK。どちらもシーンに登場してきたときはそれだけで画期的かつ衝撃的な存在だったものの、時とともにそうした刺激性は薄れてきて。むしろ国民的パフォーマーとして定着して。それだけで、とてつもなく歴史的な事件だ。俯瞰して見れば、彼らがシーンに登場してきた時点で日本の音楽シーンの在り方が大きく変わったわけだし、役割は存分に果たしているはず。
だから、若者を叱咤するならいざ知らず、ベテランにこういう怒りを向けるのは間違いなんじゃないかな。なんか、日本の、特に音楽ジャーナリズムの世界には“常に新しくあらねばいけない”みたいな価値観が強迫観念的にあって。最近だったらトランスっぽいグルーヴだとか、煤けたようなループをともなったローファイな音像だとかを取り入れているとそれだけで“今の時代に呼吸している”みたいな好評価を安易に与えちゃう風潮、ね。ある。間違いなく。これ、自戒も込めて言えば評論家側の怠慢でもある。ただ、そのせいか、ベテラン・ミュージシャン側でも自分のメロディ感覚にてんで合わないのにむりやり新時代の音作りを、これまた安易に取り入れちゃう人が出てきちゃったりして。共倒れ。ぼくはこの状況はひどく不健康だなと思うのだ。バランスが崩れている。絶対。
若い世代が時代の空気感に呼応したグルーヴを作り出せていないことは責められて当然としても、若いころポップ・ヒストリーにおいて大なり小なり何らかの形のショックを一度でも与えていて、それを確実な手応えとともに自覚できている熟練アーティストならば、自分の味の中に生きていたとしても何の問題もないでしょ。で、それがそのまま、“今”という時代の中で有機的に機能していればそれは紛れもなく“現役”の音楽だし、たとえ有機的に機能していなくても、ファンにとってはそれで十分なんじゃないかな。そろそろポール・マッカートニーの新譜とか、ミック・ジャガーの新譜とか、マイケル・ジャクソンの新譜とかが出るけど、そこに提出されたものが、たとえばニッケルバックとかインキュバスとかレニー・クラヴィッツとかの新作アルバムに比べて現実感がなかったとしても、だからどうした……と。そんな感じ。
というわけで、長い長い前置きでしたが。このアルバムもそうなんスよ。キャロル・キングの新作。ここには、まぎれもなくキャロル・キングの音楽があって。曲によってはベイビーフェイスと共作していたり、セリーヌ・ディオンやk.d.ラングが参加していたり。まあ、今の時代との接点も用意されてはいるのだけれど。でも、ここで展開されているのは、60年代にまず職業作曲家として黄金時代を築いて、やがてシティというバンドを組んで、『ライター』ってアルバムで再度ソロ・デビューを飾って、1971年に『タペストリー』で大ヒットを飛ばして、そこで確立した自分の音世界を大切に育てながら、その後多くのアルバムのリリースやライヴ活動を重ねてきたキャロル・キングならではの世界。楽曲自体の出来は、残念ながら才気ほとばしる往年のアルバム群とは比べるべくもないものの、そういう歴史を彼女とともに歩んだファンであればあるほど愛おしく感じるはずの一枚なのだ。逆に、そう感じることができる人以外には意味のないアルバムとも言えて。その辺の広がりのなさとか、新時代に対する説得力のなさを突っ込まれたら、まあ、確かにその通りでございますとしか答えられないんだけどさ。でも、だからどうした……なのだ。
デイヴィッド・フォスターが絡んでいたり、ウィントン・マルサリスを迎えていたり、曲ごとに様々な趣向は凝らされている。けど、実は本盤中もっともぐっとくるのは、以前の旦那さん、チャールズ・ラーキーの生ベースとキャロル自ら奏でるピアノだけをバックに歌われる「オー・ノー・ノット・マイ・ベイビー」だったりする。60年代、キャロルが当時の夫だったジェリー・ゴフィンとともにプロのソングライターとしてマキシン・ブラウンに提供したヒットの再セルフ・カヴァー。ここには何ひとつ新しいものはないのだけれど、本盤でのこの曲のパフォーマンスは今、この21世紀、確実にぼくの心をゆるやかになごませてくれる。このパフォーマンスになごめる自分でいてよかったとも心から思うし。
「オー・ノー・ノット・マイ・ベイビー」以外は、1997年から2001年にゆっくりと書きためられた曲たち。「ユーヴ・ガット・メイル」の主題歌が入っていないのはちょっと残念ながら、父親ブライアンとの共演が話題を呼んだウィルソンズへの提供曲「マンデイ・ウィズアウト・ユー」も入ってます。