追悼:ジェリー・リー・ルイス
ジェリー・リー・ルイスが亡くなった。“ザ・キラー”のニックネームでも知られるロックンローラー。チャック・ベリーやエルヴィス・プレスリー、バディ・ホリー、リトル・リチャードらとともに、1986年、ロックンロール・ホール・オヴ・フェイムの殿堂入り第一号アーティストとなった偉大なオリジネイターのひとりだ。
あれから36年後の今年。2022年。ジェリー・リーはカントリー・ミュージック・ホール・オヴ・フェイムでも殿堂入りを果たした。彼は子供のころから、ジミー・ロジャースやハンク・ウィリアムスらカントリー音楽の始祖的なアーティストの音楽を愛し続けてきた。それだけに、心からこの殿堂入りを喜んでいたはずなのだけれど。2019年に脳卒中で倒れて以来、ジェリー・リーは入退院を繰り返していたようで。授賞式に出席できずじまい。クリス・クリストオファソンが代理で賞を受け取っていたっけ。年齢的にもすでに80歳代後半。だいぶ病状も悪化しているのかな、と。陰ながら心配していた。
そして、訃報が届いた。10月28日、ミシシッピ州の北西隅に位置するデソト・カウンティにある自宅で奥さま、ジュディスさんに看取られての旅立ち。享年87。またひとつの時代の終焉を告げる悲しい報せだった。
ジェリー・リーは1935年、ルイジアナ州フェリデイ生まれ。幼いころは母親の勧めで聖歌隊に加わり、聖職を目指しテキサスの神学校で学んでいた。が、10代になって黒人音楽の魅力に目覚め、寮を抜け出して黒人向けの酒場に入り浸ったり、学校で賛美歌をブルースふうにアレンジして歌ったり…。当然、退学処分となり、その後は故郷ルイジアナや、ミシシッピ、テネシーなど各地の酒場のハウス・ピアニストとして生計を立てるようになった。
1956年11月、テネシー州メンフィスへと出向き、エルヴィス・プレスリーを見出しデビューさせたプロデューサー、サム・フィリップスが経営するローカル・レーベル“サン・レコード”でオーディション。このときフィリップスは出張で不在だったが、エンジニアのジャック・クレメントが可能性を感じてジェリー・リーのパフォーマンスを録音し、フィリップスに聞かせた。フィリップスもこの若きピアニストを気に入り契約が成立。とはいえ、当初はカール・パーキンスやジョニー・キャッシュら、サン・レコード所属アーティストのバッキング仕事がほとんどだったようだ。
が、そのおかげで、彼は1956年12月4日、伝説の“ミリオン・ダラー・カルテット”セッションの場に居合わせることになった。その日、サン・スタジオではカール・パーキンスが新曲「マッチボックス」のレコーディングが行なわれていた。プロデューサーはもちろんサム・フィリップス。1956年春に大ヒットした「ブルー・スウァード・シューズ」以来、芳しい戦績を残せずにいたパーキンスに、心機一転、さらなるヒットを期待してフィリップスがセッティングした録音セッションだった。
このとき、ギター中心のグルーヴが特徴のカール・パーキンス・サウンドに新風を吹き込もうとフィリップスが招集したピアニストがジェリー・リー・ルイスだった。そこへ、やはり当時サン・レコード所属だったジョニー・キャッシュと、サンから大手のRCAレコードへと移籍したばかりだったエルヴィス・プレスリーがたまたま顔を出し、伝説の共演が実現した。このときの模様はレコードとしても発売されたし、ミュージカルにもなって日本公演も行なわれたのでご存じの方は多いだろう。このあたりにもジェリー・リーの運の良さというか、引きの強さが感じられる。
このセッションの後、1957年に自らソロ・パフォーマーとしてサン・レコードからデビュー。「ホール・ロッタ・シェイキン・ゴーイン・オン」「グレート・ボールズ・オヴ・ファイア」「ハイスクール・コンフィデンシャル」など、スピーディなロックンロール・ヒットを立て続けに放った。
当時、多くの白人ロックンローラーがギターを抱えて歌うスタイルをとっていたのに対し、ジェリー・リーの楽器はピアノ。ステージ・アクションの面で不利だったが、彼はそんなハンデをものともせず、立ったままピアノを弾いたり、ピアノの上に乗って歌ったり、時にはピアノに油をまき火を点けたり…。ワイルドなステージングを見せた。このパフォーマンスはのちのエルトン・ジョンやベン・フォールズなどにも大きな影響を与えている。火を吹くような激しいピアノ・プレイと、長い前髪をはらりとたらしたコワモテの容姿が受け、“ザ・キラー”のニックネームまで生まれた。
しかし1958年、彼が13歳の又従姉妹と再婚したことがスキャンダラスに報じられ、ロックンロールの台頭を面白く思っていなかった保守的な層からの非難がここぞとばかりに渦巻いた。当時、アメリカ南部では若い親戚との結婚もけっして珍しいことではなかったが、ジェリー・リーはまだ前妻との離婚を正式に成立させていなかったため、その倫理観の欠如に対して厳しい反発が巻き起こり、彼の音楽は多くのラジオ局から締め出されてしまった。
これを境にジェリー・リーの活動状況は厳しいものに。1963年にはとうとう古巣のサン・レコードを離れ、以降しばらくは主にカントリーのフィールドで活動するようになった。もちろんカントリーのフィールドでもジェリー・リーは活躍。充実した録音を数多く残し、ヒットも生まれた。が、やはりジェリー・リー・ルイスの凄みはロックンロールを演奏したときにこそ炸裂する。
だから、いったんはスキャンダルに阻まれたとはいえ、彼が活動初期、サン・レコードに残した圧倒的なロックンロールは時代を超えて多くの後続アーティストたちを刺激し、受け継がれ、生き残った。彼自身も1970年代に入ると再びかつてのワイルドなロックンロール感覚を取り戻し、活発な活動を再開した。
前述した“ミリオン・ダラー・カルテット”セッションに参加した者のうち、エルヴィス・プレスリーは1977年に、カール・パーキンスは1998年に、そしてジョニー・キャッシュとサム・フィリップスは2003年に、それぞれこの世を去ってしまったが、唯一ジェリー・リーだけは生き残った。偉大なロックンロールのオリジネイターとして時を超えて活動を続けた。
音楽以外の面では事件あり、病気あり、様々なトラブルがその後もジェリー・リーの人生を襲い続けたのだが。ロックンロールのオリジネイターとしての彼は存在感を失うことがなかった。21世紀に入ってからも、ブルース・スプリングスティーン、キース・リチャーズ、ニール・ヤング、ロッド・スチュワート、ジョン・フォガティら後輩ロックンローラーたちと共演したデュエット・アルバムを立て続けにリリースするなど、元気なところを見せてきた。
ミュージカル『ミリオン・ダラー・カルテット』のステージにも何度か登場し、キャストとの共演でいまだ衰えぬロックンロール魂を炸裂させた。ぼくは幸運なことに、ちょうど10年前の2012年、『ミリオン・ダラー・カルテット』のメンフィス公演が行なわれた際、ゲストとしてアンコールに登場したジェリー・リーのステージを生で楽しむことができた。もちろん、さすがに年齢のせいもあり声も弱くなり、往年の切れ味は望むべくもなかったけれど、持ち前のやばさだけは変わらず伝わってきた。存在感にブルった。震えた。感動した。
まさに“ラスト・マン・スタンディング”。ロックンロール創生期最後の生き残り。その壮絶な歩みにとうとう終止符が打たれたわけだ。ごきげんなロックンロール・グルーヴをたくさん、ありがとう。エルヴィスとカールとジョニーが待っている。“ミリオン・ダラー・カルテット”セッションをまた、心ゆくまで、天国で!