2006年11月11日、英ロンドン、ウェンブリー・アリーナ/ブルース・スプリングスティーン
ブルース・スプリングスティーンが『ウィー・シャル・オーヴァーカム〜ザ・シーガー・セッションズ』というアルバムを出したのは2006年のことで。もう14年前かぁ…。あのアルバムには本当に感動したものだ。スプリングスティーンにとって初の全編カヴァー・アルバムで。フォーク音楽の探求者、ピート・シーガーに縁の曲を集め、自宅に腕きき演奏家を多数迎えて、完全アコースティック編成で、ほぼ一発録りされた1枚。ある種の重要な分岐点だった気がする。
ピート・シーガーという人は自作曲を歌うだけでなく、古い労働歌、霊歌、反戦歌など重要なトラディショナル曲を熱心に発掘/伝承し続けた偉人。つまり、シーガーに捧げるアルバムという体裁を取りつつも、あのアルバムはスプリングスティーンによる米トラディショナル名曲集というか、歌うアメリカ史というか。そんな色合いが濃い仕上がりだった。たとえば『明日なき暴走』が20歳代半ば、若き日の彼にしか作り得なかった名盤だったとするならば、『…シーガー・セッションズ』もまた年輪を重ね、50歳代半ばを過ぎた彼にしか作り得ない傑作だった。
あの時期以降、スプリングスティーンにとって、もはやその歌を誰が作ったかなんてこと関係なくなってしまっていたのかもしれない。むしろ作者不詳という形で世代から世代へと歌い継がれ、歳月を乗り越えてきたトラディショナル楽曲にこそ、誰の心にも深く染み入る真実がある、と。そういった真実を歌い継ぐことも、自作曲を作ることも、かつての自作曲をライヴなどで再演することも、何ら隔たりはない、みたいな。
そういう意味で『…シーガー・セッションズ』は1990年代にボブ・ディランが出した2枚の弾き語りカヴァー・アルバムに近かった気がした。地下室セッションでも自画像セッションでもなく、1992年の『グッド・アズ・アイ・ビーン・トゥ・ユー』と1993年の『奇妙な世界に』だ。伝承への同化。自らの活動を米音楽史の大きなうねりへと冷静に位置づける作業…。
そんな傑作のリリースを受けて、スプリングスティーンはツアーに出た。フィドル、バンジョー、アコーディオン、ホーン・セクションなどアコースティック楽器ばかりの大編成グループ、“ザ・シーガー・セッションズ・バンド”を引き連れ、2006年4月から11月まで、アメリカとヨーロッパを行ったり来たり。アメリカのトラディショナル曲からおなじみの自作曲まで、分け隔てなく斬新な解釈で歌いまくってみせた。その模様は、翌年『ライヴ・イン・ダブリン』というDVD付きのライヴ・アルバムに収められて世に出た。そして、これまた感動的な仕上がりだった。
『…シーガー・セッションズ』でお披露目されたカヴァー曲の独自解釈も素晴らしかったけれど、それだけじゃない、おなじみのスプリングスティーン・ナンバーにあえて加えた大幅な変更ぶりも実に興味深かった。それまでとは異質な音楽性にいきいき取り組むスプリングスティーンの生の姿がきっちり刻み込まれていた。『…シーガーズ・セッション』のとき以上に演奏も練られていたし、バンドとのコンビネーションも素晴らしかった。ダブリンという収録場所の選定にもうならされた。
伝承への同化というコンセプトに、より具体的かつフィジカルな手触りを与える試み。いろいろな意味でスプリングスティーンにとって大切な、そして充実したルーツ再確認期だった。そんな一連の充実した流れを今また改めて思い出させてくれる貴重な未発表ライヴ音源が、本ブログでもすっかりおなじみ、スプリングスティーンのオフィシャル・ライヴ・アーカイブ・サイト Live.BruceSpringsteen.net でダウンロード販売された。これはうれしい。
件のシーガー・セッションズ・ツアーから、2006年11月11日、英ロンドンのウェンブリー・アリーナで行なわれたコンサートの模様をフルで記録した音源。基本的にはこの数日後にライヴ録音された『ライヴ・イン・ダブリン』のヴァリエーション。とはいえ、あのライヴ盤には含まれていなかった自作曲——アルバム『デヴィルズ・アンド・ダスト』からその表題曲と「ジーザス・ワズ・アン・オンリー・サン」、『ザ・リヴァー』から「ユー・キャン・ルック」、そして次作『マジック』に収録されることになる「ロング・ウォーク・ホーム」——と、『…シーガーズ・セッション』からの「フォギー・ウェント・ア・コーティン」も楽しめる。
特に、“新曲やります”と成り立ちを説明してから歌われる「ロング・ウォーク・ホーム」。やばい。このツアーで唯一演奏された世界初演ヴァージョン。『マジック』に収録されたものとは微妙に歌詞が違っていたり、別ヴァースが追加されていたりする制作途上版だ。オフィシャル・リリース版は基本的に3番までしかなかったけれど、こちらには4番もある。ぐっと地味な、淡々とした、しかしそれゆえによりしみる仕上がりだ。「ユー・キャン・ルック」は2006年4月、ニューオーリンズ・ジャズ祭に出演時のヴァージョンもあったけれど、こちらはさらにグルーヴが強化された感じのパフォーマンス。
ちなみに、逆に『ライヴ・イン・ダブリン』に入っていてこちらには入っていない曲は「ファーザー・オン」「イフ・アイ・シュッド・フォール・ビハインド」「ハイウェイ・パトロール・マン」という自作3曲。ボーナス・トラックまで含めるとカヴァーの「ラヴ・オヴ・ザ・コモン・ピープル」と「ウィー・シャル・オーヴァーカム」もあちらのみ。DVDに入っていたバックステージでの「キャディラック・ランチ」はもちろん、PBS版のボーナスも全曲こちらでは聞けない。併せて楽しまないとね。
メンバーも強力。スプリングスティーン(ヴォーカル、ギター、ハーモニカ)、スージー・タイレル(フィドル)、サム・バードフェルド(フィドル)、フランク・ブルーノ(ギター)、マーティ・リフキン(ペダル・スティール)、グレッグ・リスト(バンジョー)、チャールズ・ジオルダーノ(オルガン、ピアノ、アコーディオン)、ジェレミー・チャツキー(ベース)、ラリー・イーグル(ドラム)、カート・ラム(トランペット)、クラーク・ゲイトン(トロンボーン)、エディー・マニオン(サックス)、アート・バロン(テューバ)、カーティス・キング・ジュニア(コーラス)、リサ・ローウェル(コーラス)、シンディ・ミゼル(コーラス)、マーク・アンソニー・トンプソン(コーラス)という顔ぶれ。パティさんはロンドンにはいなかったのかな?
Eストリート・バンドとの鉄壁のロックンロール・グルーヴとはまた大きく違う、アーシーで柔軟な躍動を堪能できる。今回もmp3、ロスレス、ハイレゾ、CDなど多彩なフォーマットでのリリース。ぼくはいつものようにハイレゾ・ダウンロードでゲットしました。